現在、実証主義(positivism)を問い返すことは時代錯誤を意味するのだろうか。なぜ、この問いを冒頭で発したのか。それは二重の了解に起因している。思潮としてみるかぎり、19世紀に生誕した実証主義はすでに過去完了とみなしてよいだろう。しかし、他方で、それはいまなおその命脈を保ちつづけているといってよい。ここに現況の社会学的認識空間にある基柢的な〈ねじれ〉をみることができる。私たちの問いは、そこに向けられている。
ところで、社会学は「通常科学」[Kuhn, 1962=1971: 12]といえるのだろうか。おそらくこの問いは如何なる論争も生じさせないはずだ。なぜならば、現在的にみて《社会学のメイン・パラダイムは成立していない》と確言しうるからである。それを「パラダイムの昏迷」や「多極的なパラダイム構造」[今田, 1986: 23-25]と表わしてもよいだろう。周知のように、「今日、世界の社会学の諸潮流は多様である」[富永, 1986: 377]と語られてからすでに久しい。だが、留意しよう。実証主義は、なぜか、こうした議論地平には主題的に登場してこないようにおもわれる。なぜだろうか。それは、この思潮がすでに過去完了のものとみなされているからではない。現況の社会学にあって、実証主義は生きいきと機能しつづけているといってよい。だが、それは〈語られない〉のだ。
これが〈ねじれ〉である。私たちはこうした事態を指して、かつて〈奇妙な棲み分け〉と表現した[井出・張江, 1998]が、ここでは、さらにその背後へと遡及したいとおもう。つまり、私たちの問いの要諦は現況にある実証主義の存立機制に置かれている。それゆえ、まずは実証主義が生きいきと機能している領野である〈社会調査の世界〉を一瞥し、そのうえで、実証主義の原像であるコント社会学へと遡及する。次いで、実証主義を歴史哲学の呪縛から解放したM.シェーラーの知識社会学的立論を確認する。そこにおいて実証主義は〈知の論理〉、つまり帰納的方法として純化する。だが、そのことによって帰納的方法が本質的にもつ問題性も明確化されることになるだろう。さらに私たちは、そこにみられる自然科学への対応のなかに謂わば〈奇妙な棲み分けの原像〉を目撃するはずである。以上を確認したうえで、実証主義の深部に存立する〈形而上学的前提〉を明らかにするとともに、実証主義によって向けられた社会事象や諸経験への問いを現象学的理路へと転轍する方途を示したいとおもう。
ここでは、現在的に実証主義を問い返す意義を明らかにしたい。周知のように、社会学理論において19世紀のA.コントに代表される古典的実証主義はすでに過去完了でしか語られることはないだろう。それでは、20世紀の前半に位置する論理実証主義はどうだろうか。かつてK.ポパーは自らの知的自伝で回想し、「誰が論理実証主義を殺したのか」と自問する。その自答が、「私は自分に責任があると認めなければならない」[Popper, 1976=1995: 159-160]というものだ。その真偽がどちらであるにせよ、新実証主義とも呼ばれるこの思潮もまた、現在では少なくともやはり過去の出来事とみなされているといって大過あるまい。では、そのポパーとTh.アドルノに端を発した「実証主義論争」はどうだろうか。それは、1960年代をとおして批判的合理主義と批判理論とのあいだで交わされた論争である。これも、すでに30年以上が経過し、近年ではさほど主題的に論じられることも少なくなっているとおもわれる(1)。
このように概観してみると、現況において実証主義は死んだ犬なのだろうか。私たちがみるかぎり、明らかにそうではない。それは〈自らの足下において〉生きいきと現在的である。いい換えれば、実証主義は社会学における〈奇妙な棲み分け〉によってその命脈を保ちつづけているといえるだろう。ここで〈奇妙な棲み分け〉とは、戦後半世紀にわたり成立しつづけている社会学の基柢的な相貌への表象の謂いである。
社会学には「奇妙な棲み分け」が成立している。たしかに社会学理論をみれば、「今日、世界の社会学の諸潮流は多様である」……といえるかもしれない。……だが、……社会学にあって「実証研究」と称される領域はこの「多用さ」とは無縁である。そこにみられるのは、旧態依然とした「方法」によって産出されつづける膨大な「経験的研究群」である。そこでは、あたかも時間は流れず、「社会調査」という自動機械が稼動しつづけるかのようだ。[井出・張江, 1998: 190]
ここで私たちが「方法」と呼んだものは狭義の技法ではない。「旧態依然とした方法」とは端的に実証主義を意味している。じつは、かつて私たちが呈示した〈奇妙な棲み分け〉という社会学的認識空間への了解は、多くの社会学者に共有され、自明視されてきた表象であるといえるだろう。ただし、その事態を〈奇妙な〉と形容して了解されていないだけである。私たちがみるかぎり、謂わゆる「理論研究」に対置される「実証研究」「経験研究」と呼称される領域で、実証主義は〈生きた化石〉として地平的に作用しているとおもわれる。いい換えれば、それが顕在化されるのは、概して社会調査を鳥瞰する場面においてである。たとえば、岩永雅也は「実証主義と社会調査」との関係をその発生的な問題系をも視野に入れつつ、〈入門者〉への導入を図るテキストという制約ゆえに、端的に、しかも、じつに鮮明に語っている。
社会調査は……社会学的な研究に本来的に付随するものではなく……社会学とは別のところで独自に発達してきた技法である。それが社会学研究の基本的な方法となったのは、社会学の生みの親である……コント以来、社会学を実証科学……とする見方が一貫して主流をなしてきたからである。……実証主義……とは……社会事象は神の意志……といった超経験的な概念によってではなく、観察された経験的事実によってのみ説明されるべきだ、という考え方である。その姿勢が現実の社会の観察や認識のための技法である社会調査と社会学とを結び付けた……。[岩永, 1996: 15]
岩永は注意深く「考え方」をすぐに「姿勢」へと用語置換をしているとはいえ、社会学の「主流」がその根柢に実証主義を湛えつづけてきたとする表明は明瞭に捉えることができる。しかも、こうした了解は、むろんかれにかぎられたものではない。周知のように、社会調査における量的調査法と質的調査法との関係は主流と非主流として定式的に表象されてきた。だが近年、両者の研究方法としてのプライオリティ順位に後者からする異議申立てが顕著である。こうした流れのなかで、質的調査法を主題的に鳥瞰しつつ、それを〈科学的に〉位置づけようとする文脈で古賀正義は実証主義を量的調査法と単純に重ね合わせながら、社会調査方法という認識空間の現況を示している。
まず「量的調査法」という自然科学研究をモデルとした精緻な統計的計量的研究法があり、「実証主義」の観念を基盤とした仮説検証型の分析方法が提示されていく。次いで……「質的調査法」が対抗的……残余的な方法であるが、直接的に現実に接近した方法として位置づけられる。……質的調査法が非実証主義的方法であるという消極的な評価そのものはほとんど揺らぐことがない。……こうした認識は……社会科学理論の動向……とも関連しながら、現在もなお維持され続けている……。[古賀, 1997: 16]
留意しよう。古賀は質的調査法への「消極的な評価」に異議を唱え、それがもつ「社会的事実の『了解可能性』」[ibid.: 17]を基点として、その地位向上、つまりはその〈実証主義化〉を考えているとみることができる。かれはそれを、今田高俊が呈示する「メソドロジーの三角形」[今田, 1986: 15-18]に全的に依拠することですすめる。メソドロジーの三角形とは、観察帰納法・仮説演繹法・意味解釈法からなる「科学の方法を代表する三様態である」[ibid.: 14]。今田によれば、前二者は「実証主義の系譜から論理実証主義の登場を契機として分化した。意味解釈法は解釈学に起源をもち、現象学を経由した存在の解釈学によって完成をみた」[ibid.:
15]という。それぞれは「観察−帰納−検証、仮説−演繹−反証、意味−解釈−了解の各方法をあらわしている」[ibid.: 16]ことから知られるように、それは、実証主義・批判的合理主義・解釈学の学理を方法的トリアーデとして相互補完的に捉えたものとみなしてよいだろう。
だが、いま私たちにとって問われるべきは、こうした統合的試みの正否ではない。むしろ焦点化しなければならないのは、社会学の「主流」が実証主義をその根柢に湛えつづけてきた根拠、あるいはその機制である。今田はそれを「実証研究」に携わる研究者たちの「理性の貧困」[ibid.:
24]に求める。
かれによれば、1960年代に台頭する「パラダイムの昏迷……状況にたいするもっとも安易な反応は、パラダイムにたいして無関心をきめ込み、それとは関係なく経験的事実の収集と分析に専念することで、みずからのアイデンティティを保持しようとすることである」[ibid.:
23-24]という。たしかに、現況の〈奇妙な棲み分け〉にはこうした側面をみることができるだろう。さらにいえば、こうした〈制度化された知〉の自己増殖を指弾することは比較的容易い。だが、それだけなのだろうか。おそらく実証主義パラダイムには、こうした知的怠惰を顕現化させないで済ませられる機制が内在しているのではあるまいか。あるいはより積極的に、それには自らを維持すべき〈確信〉を構成する機制が潜在的な仕方で機能しているのではあるまいか。それを実証主義の〈形而上学的前提〉と呼ぶとすれば、私たちはそれを明らかにするために、現況の〈奇妙な棲み分け〉の背後へと遡及しなければならないだろう。→続きを読む(頒布案内)