題名の含意は、単純である。イデオロギー暴露に止まる批判を、テクノロジー批判ともいうべき水準から相対化し、社会に対する認識生産の様式として論じ直す必要性を表現しておきたかったということに尽きる。ここで使っている「イデオロギー」は、アルチュセールやイーグルトンの多元性においてというより、理念レベルに閉ざされた主義主張という、いささか一次元的で古典的な風味が強いかもしれない。理念や思想のレベルだけではなく、実践とそれを支えている技術・知識のレベルに焦点をあてようという文脈において、「テクノロジー」が持ち出されているからである。もちろん、イデオロギーの絶えざる介入のもとで、はじめて理念に対して駆動力を有する主体という実践の形象が現れ、また技術の役立ち方そのものが決定されているという、基本的なメカニズムを認識していないわけではない。現象学からいわゆる構築主義にいたるまでの認識論が主張してきたように、イデオロギー暴露は無意識であるがゆえに強い意味づけの権力をくつがえし、見過ごされ忘れられているがゆえに弱いありうべき可能性の想像を描きなおす、ユートピア的な契機として重要な役割を果たす。しかしながら、着地点の展望なきまま?くりかえされる暴露主義の永久運動が、言葉尻の細部に迷いこみ、その運動性の理念に反した固定化と他者排除の反動をはらみやすいこともまた、「ファシズム」や「スターリニズム」をはじめとする多くの運動の歴史的帰結が証言するところでもある。なぜテクノロジーという視点を持ち出すのかも、まさにここにかかわる。それは超越的に外在する「科学」の座標軸を期待し、不確実な航海に羅針盤の「信頼」を導入しようがためではない。ここで提出しようとするテクノロジー批判は、イデオロギー暴露主義ともいうべき立場による批判への固着が陥りがちな「陰謀」理論への内閉と「水掛け論」への低迷とを回避して、ふたたび実践という遂行性のレベルにおける可能性の存立の現場へと、社会学の観察を回帰させる。そのための、もうひとつのイデオロギー批判だからである。
狭い意味での「統計的調査」で採用されている技術の実際だけが、テクノロジー分析の対象ではない。たとえばテープレコーダーが用意したテクスト分析の微細さも含まれるだろう。調査という実践を成りたたせている複数の技術の複合的の総体を、「テクノロジー」ということばで問わなければならないと思う。そのような拡大こそが、社会科学の基礎を問い直そうとする、この研究会の趣旨にふさわしい。その点において、本稿は「社会調査」をめぐるイデオロギーとテクノロジーの再検討をその基礎にすえつつ、シンポジウム組織者が提起した問題、すなわち今日の社会調査の実効性を支えているかのように見える「信頼性(plausibility)構造」がいかに形成されてしまったか、という問いの解き口を探ろうとする試みである。
私自身の調査法への関心は、ふり返って考えれば1970年代後半に遡る。社会学への進学を意識しはじめた学生の頃、人類学やコミューン論による越境と内破を比較社会学の名のもとに追求していた真木悠介=見田宗介に学び、その若き日の「質的なデータ分析の方法論」構想に触れた。その意義の解読は拙い修士論文の重要な一部分を構成し、未達成の資料論の意識化は、私自身の社会学の課題の1つとなった。しかしながら、調査論の領域での問題提起は、表1にまとめたシンポジウムなどの報告でなされたものが多く、それぞれ設定された枠組みに限定されている。それゆえ、あるていどの整理が必要であろう。これらを通じて、私は何を問題提起してきたのか。
大きく言って、次のような3つの主張をくりかえしてきたように思う。
報告場所 | 年度 | 全体の主題 | 報告題名 | 論文 |
---|---|---|---|---|
日本都市社会学会 | 1995 年度 | テーマ部会「都市社会調査における質的方法と量的方法:優劣論争を超えるために」 | 量的/質的方法の対立的理解について | 佐藤 [1996] |
関東社会学会 | 1999 年度 | テーマ部会「質的調査研究における「確からしさ」」 | 「質的」の語のなかの混乱と危険性をこえて | ナシ |
国立民族学博物館 | 2001 年度 | 共同研究シンポジウム「歴史叙述の現在:歴史学と人類学の対話」 | テクノロジーと記録の社会性 | 佐藤 [2002] |
日本社会学会 | 2001 年度 | テーマ部会「社会調査の困難:社会学 のなかの社会調査」 | 『社会調査ハンドブック』の方法史的 解読 | 佐藤 [2003a] |
日本社会学史学会 | 2002 年度 | シンポジウム「社会的現実の多様性と経験的研究の軌跡」 | 「質的データ」論の位相一社会調査史からみた社会学史研究の一側面 | 佐藤 [2003b] |
社会科学基礎論研究会 | 2002 年度 | シンポジウム「社会調査の知款社会学」 | 質問紙調査のテクノロジーとイデオロギー | 本稿 |
第1に、「量的/質的」の大文字化した対立(すなわち、社会調査方法論における「統計的方法/事例的方法」「量的分析/質的分析」「数量的データ/質的データ」の二項対立的な地平)が歴史的・社会的に構築されたものであるということである。その存立を支えているイデオロギーの歴史的な構造に無自覚に依存したまま主張を組み立てるのは危うい。だから私自身はむしろ、このような形での大文字性がほんとうに必要なのかという検討から始めるべきだと論じてきた。そして、融通無碍に使いまわされ、恣意的な対称軸を自己増殖させるような循環を切断しようという立場を説いてきたつもりである。
日本の社会学研究の発展をふりかえってみて、「量的/質的」の対立的な地平の形成にとっての1つのエポックは、1950年代末にあった[佐藤,1996:8‐11]。そのなかで、後にスタンダードな解説書として使われる福武直『社会調査』がもった影響力に焦点をあてた。対象は、諸要素を結合させ諸様相を含みこんだイデオロギーの複合態である。何ゆえに『社会調査』は、この地平の形成に対する一定の寄与を批判されざるをえないのか。
1つには、方法論(「調査研究の全体的性格からみた方法」、全体としての研究法の類型分類)と方法(「現地調査でデータ蒐集のために用いられる調査方法」、技術・実践の特質把握)を相対 的に分離して[福武,1958:49 ]、技術1 つ1 つがもつ意義の解読とは別な水準において「研究法」「方法論」を論ずる抽象性を用意してしまったことである。水準としては分離しつつ、なお同じ言葉で重ね合わせて論じうるような微妙な距離設定が、「量的/質的」の方法論議に論理階梯の混乱を引き起こしていった。2 つ目には、研究法の整理において統計的/事例的の対比を「代表的なもの」として中心にすえ、歴史的な方法や実験的な方法の認識を周縁に退けたことである。対称的な図式の定立は、いっけん問題をクリアーに整理したように見えて、実際には視野を限定した上に成り立ったものであった。さらに3 つ目に指摘すべきは、「非統計的」=「事例的」すなわち「質的」という自己排除的で限定的な説明を前面に押し出したことであって、その「非」という残余の論理こそ、まさしく融通無碍に拡大縮小し比喩的な横滑りにも対応できる曖昧さを有しつつ、なお同位対立概念の並置に閉じた地平の本格的な成立を意味したのである。
この認識論的な地平が今なお効力を有していることは、教科書の「陰謀」という以上に、われわれ読者たちの責任である。「質的」の語を運動のアジテーションに使い「調査研究の全体的性格からみた方法」を論ずることは、この地平を結局のところ拡大(内実としては縮小)再生産してしまう。だからこそ、具体的な研究実践で「用いられる調査方法」に焦点をあてなおして方法論を論じ、対立において固定化しないような実践を構想しなおすべきではないかと考えたのである。
第2に、いっけん対称的な並列にみえる分類の「非対称性」こそが、問題の解き口であるとの、もう一歩踏み込んだ問題提起も付け加えてきた。重要なポイントは、「質的」という語が「空のカテゴリー」として生み出されたという歴史認識である。
「質的」の括りは、外から作りだされたレイベリングでしかなく、技法の特質の具体性を貫いて意味をもつカテゴリーではなかった。空であるからこそ、広い範囲に応用され、残余のブラックボックスとして機能することができた。社会調査論の論議の一部に見られる「質的研究法」「質的調査」という一般化された語り方とそれを充たしている過剰な期待に対して、私がいささか慎重で少なからず懐疑的なのは、その主張の多くがこの「空のカテゴリー」のイデオロギー効果に無自覚であったり、逆に明白な政治的・党派的利用にとどまっているからである。
なるほど、いわゆる「統計的研究法」「量的分析」は、技法として知を蓄積し共有してきた。サンプリング技法の発展や推計学の導入、質問紙型の世論調査の実施プロセスの知識、さらにはコーディングに始まるデータ処理・加工におけるコンピュータの利用など、1940 年代から1970 年代にかけての発展は、社会調査のテクストからもたどることができる。それに比べて、「事例的研究法」「質的分析」はどのような形で技法の言語化や、課題共有の努力や、さらにはデータ共有の試みを行ってきたか。1990 年代に入る頃になって語られはじめたフィールドワークの知を含めたとしても、あまりに単発的で散漫なものではなかったか。見田[1965 ]がいわゆる「質的なデータ」分析の方法論的な諸問題を提起し、それに対して『社会調査ハンドブック』の第2 版改訂を終えた安田三郎[1970 ]があらためて評価と批判とを加え、見田[1970 ]が鋭く分岐点を提示した、いわゆる「質的データ論争」以降に、皮肉にも理念レベルであれ具体的資料をめぐってであれ、社会調査論をめぐる論争はむしろ全体としては停滞していった。とりわけ、技法の言語化や作法の共有に対する、「質的」の旗をかかげる陣営の努力は、私を含めまったく積極性を欠いていたと判定せざるをえない。あらためて微力ながら「質的データ」論争から「データの質」の発想を救いだし、地域社会調査の先駆とされる月島調査の複合的なテクノロジー分析を試み、「統計的研究」の代表的なテクストとされる安田三郎『社会調査ハンドブック』が措定した調査研究プロセスの微妙な変容を論じたのは、この「空のカテゴリー」を方法の内側から破るためである。
第3に、福武直『社会調査』や安田三郎『社会調査ハンドブック』のような標準的なテクストブックの方法史的かつ社会史的な位相もまた、解読すべき対象である。
これも簡単に要約しておくと、佐藤[1996 ]では、戦後の社会科学における3 つの現実的な契機の融合が「調査」の重視あるいは「特権化」を生み出していったのではないかと論じた。すなわち1 つには民主化という実践的・倫理的課題へのコミットメントの熱気であり、2 つ目にアメリカン・サイエンスとしての世論調査技術の導入と需要、そして3 つ目に戦前の思弁的方法論議への反省と反動である。そのようななかで形成された調査への過剰なまでの期待と特権化のうえに、やがて大文字化していく「量的/質的」の二項対立的地平が形成されたのである。もちろん、この論点をめぐっては、測量が及んでいない部分も多い。世論調査の技術に関しても、研究者個人の回想(たとえば[岡田ほか,1953 ]など)だけでなく、たとえば1947 年に内閣総理大臣官邸で行われた「世論調査協議会」の議事録[1947 ]やCIE の役割などを含め、その知識の導入と効果について丹念に跡づけられるべきだろう。また思弁的方法論議への反省にしても、総動員体制への自己批判を含み、戦争体験や戦争責任論の領域と無縁ではなかった。そう捉えてはじめて、世論調査の技法の理解が民主化への思いと重なりあってしまったがゆえに生み出された混乱と困惑もまた、理解可能になる。小山栄三[1946 ]の「世論調査の終局の目的は、この国民の一般投票によらずして世論を認知しようとするものであります」という宣言も、川島武宜[1947 ]が主張していたような社会構造が「民主化」されないと世論調査のような計量的な方法の妥当性は高まらないという解釈も、こうした時代に内在した視座構造の特質を表象し、また規定されている。だとすれば、21 世紀はじめの状況を生きる、われわれの方法論は、いかなるイデオロギーの規定力を被っているのか。
小山や川島らの言説をテクノロジー分析の課題として受け止めるとき、「国民」あるいは民主化された主体としての個人の「声」としての世論の仮象は、いかにして可能だったのかという問いが生み出される。そのとき焦点になるのが、次に検討を加える「質問紙」(=調査票)という存在である。→続きを読む(頒布案内)