1979年2月19日、死の3ヶ月前、タルコット・パーソンズは、現代の反 ユダヤ主義を再考する論文を脱稿した。翌年になって、しかもかなりマイナーな雑誌にようやくそれは発表された[Parsons, 1979=1980]。私の知るかぎりほとんど誰も注目しなかった。
しかしこれはじつは興味つきぬ論稿である。本稿の核心部分も、この論稿か らインスパイアされたものである。
本稿は、大きく2つの部分に分かれる。前半では、パーソンズにおけるい わゆる「構造-機能主義」の成立(生成)を、ドイツ的な社会学の背景、つまり ウェーバー、ジンメル、シュッツ(正確にはシュッツの場合はオーストリアだが)との関 連において捉えるという試みを行う。この関連でいえば、かつてギデンズも『シュッツ=パーソンズ往復書簡』への書評において、1つのポイントとして、パーソンズがドイツからやってきた批判に対してかなり sensitive であったことを改めて取りあげていたのは、正鵠を射たものであったといえよう[Giddens, 1979]。
後半では、こうして生成していった、いわゆる「構造-機能主義」が、いったい「ホロコーストやユートピア」といった現代の「限界状況」の局面にどのようにかかわるのか、かかわることができるのか、という問題を考えたい。この前半と後半は、木に竹を接ぐ関係にあるのではない。そこでは、1.『シュッツ=パーソンズ往復書簡』が取り交わされた時期と、ウェーバー理念型再評価の時期、「第二のジンメル」論草稿執筆の時期、といったパーソンズ方法論にとって決定的な転換の時期とが、ほぼ重なっており、2.さらにそれらと一連のナチズム批判(反ユダヤ主義批判)運動に彼がコミットしていた時期とが、またほぼぴったりと重なり、それらは深い応答関係の中にある、というのが本稿の中心主題である。それはまさに、危機の時代の行為論として「構造-機能主義」を考えるという主題に直線的につながっている。
周知のように、パーソンズには、自己の理論形成史をみずから回顧した論文 がある[Parsons, 1977]。そこで登場する理論家たちの名前は、初期にかぎって みても、ウォルトン・ハミルトン、カント、B.マリノフスキー、M. ウェーバー、L. J. ヘンダーソンはじめ馴染みの顔ぶれであり、中期からそれ以後をも含めればこのリストはえんえんと続く。
しかしこれらは、[1] 行為論と社会システム論との双方(全体)をふくむ網羅 的なリストであり、[2] 彼自身による晩年の自己整理の「物語」という見方もできる。しかし外側から、しかもこと「構造-機能主義」の生成という文脈にかぎり、またその生成のいわば現場については内側からの視点をとると、事態はかなり違って見えてくる。結論をいえば、そこではウェーバー理念型に対する再評価論文が決定的に重要であると思われてくるのである。この論文に、パーソンズ自身による「構造」機能主義の誕生の公式表明もあった。
しかしさらに、本稿のポイントは、その背景にじつは、シュッツとジンメル がいる、という点にある。
まず、シュッツについては、つぎのような関連性が存在する。1『シュッツ =パーソンズ往復書簡』、2往復書簡で言及されている(しかし原文は未刊の)、パ ーソンズの "Actor, Situation and Normative Pattern" という論稿、という2つの文脈である。
また、ジンメルについては、つぎのような関連性がある。1背後にジンメル理論の影響をもつシカゴ学派と、パーソンズとの関係、2直接にジンメルについて書かれた2つの論文、というやはり2つの文脈である。
以下では、こうした2つずつ4つの文脈にそくして、パーソンズにおける、したがって、現代社会学史において小さくはない「事件」としての「構造-機 能主義」の生誕という事態に、じつはシュッツやジンメルという「思いがけない」学者の顔が見え隠れしているということの、「論証」の試みを行っていきたい。
まず、全体の見通しと便宜のため、関連する諸文献をクロノロジカルに並べ て見てみよう。
i) 1937: The Structure of Social Action の下書き草稿: "Georg Simmel and Ferdinand Tönnies: Social Relationships and the Elements of Action"
これがいわゆる「第一のジンメル論」である。したがって、これはじっさいには1937年以前に書かれている。『社会的行為の構造』の膨大な下書き草稿 の一部であり、この内テンニース論の部分のみが『構造』に現れている。前半 のジンメル論の部分は、1993年になってイタリアで公刊された。
ii) 1939: "Simmel and the Methodological Problems of Formal Sociology"
いわば「第二のジンメル論」。上記の「発展形態」とはいえるかもしれないが、別の草稿である。
要点は、ここまでの諸論考・草稿では、方法論のレベルでいうならば、パーソンズがつねに厳格に純粋な分析的抽象概念に固執していたことである。その絶対的優位性の信念が維持されていた。
iii) 1939-40: "Actor, Situation and Normative Pattern"
この草稿ではじつはすでに上記の方法論上の立場は、変化している。パーソンズにとって、この論稿が重要な意義をもっていたのは、こうした方法論上の修正の後、これがその最初の実質的な収穫・達成物だったからである。
iv) 1940-41: 『シュッツ=パーソンズ往復書簡』 この往復書簡が交換されていた時期に、パーソンズは、上記 iii) の文献をシュッツに送付し、自己の重要な理論上の達成としてその意義を強調していた。
v) 1941: "Max Weber," in Essays in Sociological Theory: Pure and Applied, published in 1949 (first edition)
ウェーバーの『経済と社会』の部分訳(パーソンズとA.M.ヘンダーソンによる)は、1947年に出版されたが、この論文はもともと、そこに introduction として所収されたパーソンズの論稿である。後にこの Essays...... にも収録された。出版初出は、1947年であるが、原稿そのものはすでに1941年に完成していた。戦時下の混乱等のため公刊が遅れたのである。ここで、パーソンズは、「構造-機能主義」誕生宣言というべき記述を行っている。それは、内容的には、ウェーバー「理念型」の再評価とかかわらせながら、経験的「構造」概念の重要性を承認するという論理によるものであった。したがって、そこでは、厳格に純粋な分析的抽象概念は、実質上、放棄されることになった。
vi) 1941?: "Comments on Cottrel=Gallagher Paper: ‘Important Developments in American Social Psychology During the Past Decade’"
これもまったく未公刊の草稿であるが、内容は、まず、1930年代アメリカ の社会心理学(したがってほぼシカゴ学派と重なる分野)の意義を総括したコトレル=ギャラガー草稿というものがあり、それに対してパーソンズが行っている評価 論稿がこれである。
この中で、パーソンズは、自己の重要な理論上の達成として、ここでもまた上記 iii) の文献に言及している。したがって、本稿は、iii) の草稿の直後に執筆されたものと思われ、相互参照しあいながら、この時期、彼がもっとも重要な自己の理論的達成だと考えていた方法論上の突破(改変)に言及しているわけである。それはこの草稿では、具体的には、シカゴ学派とくにG.H.ミード理論の評価という文脈に関連し、経験的で具体的な「構造」概念と、より抽象的な構造概念との節合ということが、まさにそこでの理論的焦点であった。
そして、こうしたシカゴ学派評価の背後には、シカゴ理論に影響を与えたヨーロッパ理論の中心的存在としての、ジンメル評価ないし隠されたその受容という問題があった。→続きを読む(頒布案内)