社会科学基礎論研究会年報社会科学基礎論研究第2号
特集論文●社会調査の知識社会学

社会調査に対する戦後日本社会学の認識転換──「似田貝‐中野論争」再考──

井腰圭介
    問題の所在と課題設定
1.起点 ——近代社会科学の認識前提の危機と「共同行為」への転換——
2.展開 ──根底条件としての調査者と被調査者の異質性と接触の限定性
3.終息 ──科学的研究の課題としての法則定立と技術としての社会調査
    結論
キーワード:
似田貝-中野論争 調査者と被調査者関係 似田貝香門 中野卓 安田三郎 社会調査 共同行為 歴史社会学 意味連関 法則定立
書誌情報:
『年報社会科学基礎論研究』第2号(2003)、ハーベスト社、pp.026-043

問題の所在と課題設定

 社会調査は、今日、経験科学としての社会学にとって必要不可欠な手段とされている[例えば、今田,2000 ]。しかし、「日本において、社会調査が社会学の研究方法として本格的にもちいられるようになったのは、第二次世界大戦後であるといっても誤りではない」[高島,1997: 13 ]。何故なら、社会調査の本格的な利用は、敗戦を契機にしたアメリカ社会学の導入によって大きく推進されたからである[佐藤,1996: 9‐10 参照]。戦後約10 年を経た1954 年に出版された『現代アメリカ社会学』の「序」は当時のアメリカ社会学に対する関心を、「あたかも、それは、かつて戦前のわが学界において支配的であったドイツ社会科学への偏向にまさるとも劣らぬものであるといっても過言ではなかろうと思われる」と記している[早瀬・馬場,1954: 1 ]。さらに4 年後の1958 年に出版され、戦後の代表的な社会調査法の教科書の1 冊とされる『社会調査』の中で、福武直もこの間の変化を次のように書いている。「日本の社会科学は、従来、アメリカの社会科学をどちらかといえば軽視してきた。ドイツ的科学に比してアメリカ的科学は、何となく薄っぺらな感じがしたからである。けれども、このような過小評価は誤りである。……アメリカ科学が、思弁的段階から実証的段階に入ったといわれる1920 年代以降、30 余年のたゆみない方法的修練が、彼らの基礎にはあるのである。この点に関する限り、私たちは素直に頭を下げ、その研究方法を学ばなければならない」[福武,1958: 7‐8 ]。しかも、敗戦を契機に変わったのは、単に社会学の「偏向」先だけではなかった。「いまや、日本社会学の置かれた場は一変し、かつて大学や高等専門学校の講壇において虐待されていた社会学は、新制大学の発足とともに、教養科目の一つとなり、[1953 年当時:引用者補足は以下[]で示す]社会学教授者の数も三十名から一挙に百五十名に増加するにいたった」[東京社会科学研究所編,1953: 62 ]からである。このように見ると、今日の社会調査の位置づけ方は、戦後半世紀余りにわたる、日本社会学の準拠先の変更と教育制度上の変化という二重の組み換えによって進行した、社会調査に対する認識の転換のうえに成立したものだと考えられる。では、この「認識の転換」は、戦後日本の社会学的研究の中でどのように進展し、研究行為のあり方と成果に何をもたらしたのだろうか1
 本稿は、こうした意味での「認識の転換」という問題に、戦後約30 年が経過した1970 年代前半の時点で、社会調査のあり方を正面に据えて行われた、所謂「似田貝‐中野論争」を検討素材にして接近する。ここで言う「似田貝‐中野論争」とは、マルクスの疎外論や共同体論に準拠して理論研究を進めてきた似田貝香門[似田貝,1984 参照]が「住民運動調査後の覚書」[松原・似田貝,1976 参照]を「社会調査の曲り角」[似田貝,1974 ]と題して発表し、これに戦前から地域調査を基本にした「歴史社会学的調査」[中野,1975b ・c; 中野他,1975a ・b ]を継続してきた中野卓が反論を加えたことで開始され、サンプリング技法に基づいた標本抽出と標準化された質問紙による戦後主流となる社会調査法を福武とともに牽引し、社会移動と社会階層の研究を展開してきた安田三郎[安田,1971 参照]が両者を批判することで基本的な構図が作られた社会調査論争を指す2
 戦後日本社会学の認識転換を問う本稿が、この論争を検討素材とする理由は2つある。第1 に、論争の参与者の世代的・研究傾向的特性(似田貝1943 年生,中野1920 年生,安田1925 年生)から見て、この論争には1970 年代当時の日本の社会学者が抱いていた社会調査の捉え方の縮図が示されていると考えられるからである 3。それはまた、ドイツ社会学とアメリカ社会学という2つの岩盤が戦後の日本列島で30 年近くかけてぶつかって生じた亀裂が、地ならしされて消える前に残した、社会学的研究の認識目的とその達成手段である社会調査と の連関に関する基底条件の貴重な記録でもある 4。第2に、この論争は、社会調査を「調査者‐被調査者」関係に基づいて形成される認識行為とする前提を共有している点で、単なる方法論の問題としてではなく、認識行為としての社会学的研究の捉え方を問うことのできる素材だからである 5
 現時点から見れば、戦後ほぼ30 年が経過した1970 年代前半の段階で「調査者‐ 被調査者」関係に焦点を当てた社会調査論争が発生したということは、戦後導入された社会調査が、当時の日本社会で研究行為の一部として広く根づいてきた証左だと言える。その意味で、70 年代前半は戦前から続く社会学的研究のあり方が戦後的形態へと転換する過渡期だったとも言える。そしてまた、「住民運動調査」を巡って論争が開始された1974 年は、第1次オイル・ショックによって戦後の高度経済成長期が終焉を迎えた、日本社会の歴史的な曲り角でもあった。このような意味で、この論争の震源は思いのほか深く、論者間の断層は複雑に錯綜していると推定される。したがって、以下で本稿が整理する論点は、論争が開示したさまざまな断層のごく一部分に過ぎないが、この論争の検討を通して、戦後に導入された社会調査法を社会学的研究に組み込む過程で、社会学者がどのような認識前提をもっていたかを掘り起こし、70 年代前半に孕まれていた「認識の転換」の可能性を明らかにすることによって、戦後日本社会学の「社会調査の知識社会学」における問題の所在の一端を提示することが、本稿の課題である。

1.起点 ——近代社会科学の認識前提の危機と「共同行為」への転換——

 論争の起点は、似田貝の「社会調査の曲り角—住民運動調査後の覚書—」[似田貝,1974: 以下、この章での本論文からの引用は頁数のみを記す]によって作られた。似田貝は、「六〇年から七〇年にかけての地域社会の変動によって、従来の地域社会論やその調査法が現実に適合的ではなくなってきていることから、これまでの『地域調査法』を再検討し、加えて現代社会の構造的な課題を発見しよう」[1]という問題意識をもって、「昨年[1973 年]末から今年の春まで、数人の友人達と『新全国総合開発』に対して反対運動を行なっている地域を、かなりがむしゃらに調査してまわった」[1]なかで体験した、「住民運動の担い手」が調査者や調査そのものに示した「“いらだち”や“腹だたしさ”」[4]の背景を、住民運動調査における計量化などの調査技法の意味と、そうして行われる調査への被調査者の対応の仕方とを具体的に対照しながら考察する。
 似田貝はまず冒頭部分でみずから体験した「住民運動調査の困難性」[1]を、「第一に、住民運動参加者の、研究所や研究者に対するかなり強い不信感。/第二に、研究者や調査主体の、〈issue〉へのかかわり方の、執拗なまでの問い。/第三に、住民運動参加者の、研究者や調査者への情報・知識の要求」[1‐2]の3点に要約する。そして、調査活動の具体的な場面での考察を通して、これらの困難性が、「近代科学の前提となっている、『主体』と『客体』の分離という認識前提が、あるいはまた、こうした認識前提による研究者の調査活動が、危機に瀕している」[6]ことに由来するとし、この事態を「研究者が自己を大衆や住民の一員であることを感じることなしに、客体としての大衆を論じることのできた、近代社会科学の『幸福な時代』の終焉」[6]と捉え、住民運動を担っている「人々の[調査及び調査者に対する]〈専門性〉と〈共同行為〉への疑念や不満は、より根源的には、今日の社会科学における問いの立て方、実証の仕方、あるいは、社会科学者の存在の仕方についての根本的な反省と結びつかざるをえない」[3]という点で、「調査という研究者の活動が一つの曲り角に来ている」[6]ことを意味していると結論する.... →続きを読む(頒布案内)

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  1. 本稿は、シンポジュウム「社会調査の知識社会学」での鈴木健之・池岡義孝・佐藤健二(以上、報告順)各氏のご報告へのコメントを、具体的な素材に依拠して再提示したものである。なお行論上、引用文中のものを除いて敬称は全て省略させて頂きました。[→戻る
  2. 論争の発端となった1974 年の似田貝論文に言及した論文は、本稿で言及する中野・安田の論文以後にもあるが、[似田貝,1986; 1996 ]を除けば、直接的言及は70 年代後半にほぼ終焉する。本稿が論争の範囲を中野と安田の論文に限定するのは、アメリカ社会学の社会調査法の導入に伴う、戦後の認識の転換の断層を提示することが目的だからであり、その限りで基本的な論争は三者によって作られたと考えるからである。その後の経過と関連文献は[似田貝,1996 ]で触れられている。また本稿では触れることができず、脱落してしまっているマルクス主義や「実践性」等と関連した論点については[石川・橋本・浜谷,1994: 313‐391]と[橋本,1998: 181‐182]を参照。[→戻る
  3. なお、この論争に対して重要な位置を占めるのが、「戦後日本社会学における実証的研究の先導的役割を果たした」福武直である[小倉,1998: 692 ]。福武は1917 年に生まれ、「農村社会学を中心に、日本社会全体を視野に入れた広範囲な研究」を行い、「実証性・実践性に基礎づけられた現実科学としての社会学の方法を追求」[同上]し、社会調査における「量的な統計的調査と質的な個別調査」の相互補完を説く「穏健な立場」[佐藤,1996:9 ]をとった社会学者である。中野は、戦前から続く有賀喜左衛門らの農村での同族団研究を批判的に継承してモノグラフ的な地域調査を実施してきた点で福武と接点をもち、安田は「戦後の早い時期に、大学の卒業論文に『社会調査における数量的方法の諸問題』を選び、ランドバーグ『社会調査』を[福武と]共訳するなど、戦後日本の社会学において本格に社会調査論を展開」[川合,1998: 716 ]した点で福武と接点をもつ。こうした違いから、論争の通低音をなす福武の『社会調査』に対する中野と安田の捉え方は異なっている。この論争で福武の社会調査法の認識前提を最も直裁に反映しているのは、世代的に最も福武との距離がある戦後生まれの似田貝だと考えられる。なお戦後導入された社会調査法に対する福武と安田の見解の相違は[佐藤,1996: 11‐12]を参照されたい。本稿は「認識の転換」という一面的観点から、この論争に現われた限りでの見解の布置連関を示すに過ぎず、戦後の日本社会学を牽引してきたこれらの錚々たる社会学者の研究の総体を論じるものではない。したがって、本稿で提示する論点の実質的検討に際しては、各論者が行った調査の具体的内実が参照されるべきである。地図は、所詮常に、豊穣な現地に対する貧しい2次的構成物に過ぎない。[→戻る
  4. アメリカ社会学から社会調査法を積極的に導入した戦後の日本社会学は、事実上、かつてのドイツの歴史学派が直面した問題と類似した学問的状況に遭遇したと考えられる。この点で歴史学派に属するM.ヴェーバーが、所謂「ロッシャーとクニース」論文1903‐1906=1988 ]で行った「科学分類の問題」を起点にした検討作業が問題を考える範例となると思う。また、逆にアメリカ社会学での「認識の転換」は、R.K.マートンの「中範囲の理論」の提唱で行われたと考えられる。彼は、社会現象の意義をもっぱら論じる「理論」重視の社会学を「ヨーロッパ種」とし、万人が確認可能な事実の収集に専念する「調査」重視の社会学を「アメリカ種」とする対照的な2種類の社会学を設定し、この両者が背反する論理的な理由がない以上、この両種の交配によって構想される「中範囲の理論」の構築こそが、当面の社会学的研究の達成目標であるとする研究プログラムを提唱した[Merton,1957=1961: 1‐14, 400‐415 ]。こうしたマートンの構想から見ると、戦前にドイツ社会学が繁茂していた日本の社会学にアメリカ社会学を移植するという戦後の作業は、異種交配の実験を意味していたと言える。日本での認識論的組み換え作業は、社会調査の分類区分の変更作業として行われたと私は考える。この変遷過程については、[佐藤,1996 ]と[橋本,1998 ]を参照。[→戻る
  5. 社会調査を社会的行為として捉える議論は、ジンメルの「異邦人」論を導入して中野が先駆的に展開し[中野・小平,1981: 26‐29 ]、近年では[清矢,1997 ]がシュッツの「よそ者」論に依拠して詳細に展開している。[中根,1997 ]も含め、調査行為論の展開者が民俗学的調査と関わっている点も重要である。この点は[佐藤,2001 ]を参照。[→戻る

文献

福武直
1958 『社会調査』 岩波書店.
早川利雄・馬場明雄共編
1954 『現代アメリカ社会学』 培風館.
橋本和孝
1998 「社会調査方法論研究」,研究代表者・石川淳志 『社会調査史の創造的再発見』(平成7 年〜平成8 年科研費研究報告書) 177-193.
今田高俊編
2000 『社会学研究法 リアリティの捉え方』 有斐閣.
石川淳志・橋本和孝・浜谷正晴編著
1994 『社会調査』 ミネルヴァ書房.
川合隆男
1998 「安田三郎」,川合隆男・竹村英樹編 『近代日本社会学者小伝』 勁草書房 716-719.
川又俊則
1997 「宗教調査論・序説」,『宗教と社会』3 「宗教と社会」学会63-86.
松原治郎・似田貝香門編著
1976 『住民運動の論理』 学陽書房.
Merton, R.
1957 Social Theory and Social Structure, The Free Press.=1961 森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳 『社会理論と社会構造』 みすず書房.
中根光敏
1997 『社会学者は2 度ベルを鳴らす』 松籟社.
中野卓
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1975b 「歴史社会学と現代社会」,『未来』101 2-7.
1975c 「環境と人間についての緊急調査と長期調査」,『未来』 104 45-48.
中野卓(ほか六名)
1975a 「社会学的調査における被調査者との所謂『共同行為』について」,『未来』102 28-33.
1975b 「社会学的な調査の方法と調査者・被調査者の関係」,『未来』103 28-33.
中野卓・小平朱美
1981 『老人福祉とライフ・ヒストリー』 未来社.
似田貝香門
1974 「社会調査の曲り角」,『UP 』24 1-7.
1977a 「運動者の総括と研究者の主体性(上)」,『UP 』55 28-31.
1977b 「運動者の総括と研究者の主体性(下)」,『UP 』56 26-30.
1984 『社会と疎外』 世界書院.
1986 「コミュニティ・ワークのための社会調査」,『公衆衛生』50-7 441-445.
1996 「再び『共同行為』へ」,『環境社会学研究』2 50-60.
小倉康嗣
1998 「福武直」,川合隆男・竹村英樹編 『近代日本社会学者小伝』 勁草書房 692-696.
桜井厚
2002 『インタビューの社会学』 せりか書房.
佐藤健二
1996 「量的/質的方法の対立的理解について」,日本都市社会学会編 『日本都市社会学会年報』14 5-15.
2001 『歴史社会学の作法』 岩波書店.
清矢良崇
1997 「社会的構成物としての調査」,北澤毅・古賀正義編著 『〈社会〉を読み解く技法』 福村出版 160-176.
下田平裕身
1989 「『調査』の汎濫のなかで」,下田平裕身・八幡成美・今野浩一郎・中村章・川喜多喬・仁田道夫・伊藤実・中村圭介・佐藤俊樹 『労働調査論』 日本労働協会 116-140.
高島秀樹
1997 『社会調査』 明星大学出版部.
東京社会科学研究所編
1953 『社会学の基礎』 日本書院.
Weber, M.
1903-1906 "Roscher und Knies und die logischen Probleme der historischen Nationalökonomie," in Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre =1988 松井秀親訳 『ロッシャーとクニース』 未来社.
安田三郎
1971 『社会移動の研究』 東京大学出版会.
1975 「『社会調査』と調査者-被調査者関係」,『福武直著作集』2 出版会 488-499.
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