社会調査は、今日、経験科学としての社会学にとって必要不可欠な手段とされている[例えば、今田,2000 ]。しかし、「日本において、社会調査が社会学の研究方法として本格的にもちいられるようになったのは、第二次世界大戦後であるといっても誤りではない」[高島,1997: 13 ]。何故なら、社会調査の本格的な利用は、敗戦を契機にしたアメリカ社会学の導入によって大きく推進されたからである[佐藤,1996: 9‐10 参照]。戦後約10 年を経た1954 年に出版された『現代アメリカ社会学』の「序」は当時のアメリカ社会学に対する関心を、「あたかも、それは、かつて戦前のわが学界において支配的であったドイツ社会科学への偏向にまさるとも劣らぬものであるといっても過言ではなかろうと思われる」と記している[早瀬・馬場,1954: 1 ]。さらに4 年後の1958 年に出版され、戦後の代表的な社会調査法の教科書の1 冊とされる『社会調査』の中で、福武直もこの間の変化を次のように書いている。「日本の社会科学は、従来、アメリカの社会科学をどちらかといえば軽視してきた。ドイツ的科学に比してアメリカ的科学は、何となく薄っぺらな感じがしたからである。けれども、このような過小評価は誤りである。……アメリカ科学が、思弁的段階から実証的段階に入ったといわれる1920 年代以降、30 余年のたゆみない方法的修練が、彼らの基礎にはあるのである。この点に関する限り、私たちは素直に頭を下げ、その研究方法を学ばなければならない」[福武,1958: 7‐8 ]。しかも、敗戦を契機に変わったのは、単に社会学の「偏向」先だけではなかった。「いまや、日本社会学の置かれた場は一変し、かつて大学や高等専門学校の講壇において虐待されていた社会学は、新制大学の発足とともに、教養科目の一つとなり、[1953 年当時:引用者補足は以下[]で示す]社会学教授者の数も三十名から一挙に百五十名に増加するにいたった」[東京社会科学研究所編,1953: 62 ]からである。このように見ると、今日の社会調査の位置づけ方は、戦後半世紀余りにわたる、日本社会学の準拠先の変更と教育制度上の変化という二重の組み換えによって進行した、社会調査に対する認識の転換のうえに成立したものだと考えられる。では、この「認識の転換」は、戦後日本の社会学的研究の中でどのように進展し、研究行為のあり方と成果に何をもたらしたのだろうか1。
本稿は、こうした意味での「認識の転換」という問題に、戦後約30 年が経過した1970 年代前半の時点で、社会調査のあり方を正面に据えて行われた、所謂「似田貝‐中野論争」を検討素材にして接近する。ここで言う「似田貝‐中野論争」とは、マルクスの疎外論や共同体論に準拠して理論研究を進めてきた似田貝香門[似田貝,1984 参照]が「住民運動調査後の覚書」[松原・似田貝,1976 参照]を「社会調査の曲り角」[似田貝,1974 ]と題して発表し、これに戦前から地域調査を基本にした「歴史社会学的調査」[中野,1975b ・c; 中野他,1975a ・b ]を継続してきた中野卓が反論を加えたことで開始され、サンプリング技法に基づいた標本抽出と標準化された質問紙による戦後主流となる社会調査法を福武とともに牽引し、社会移動と社会階層の研究を展開してきた安田三郎[安田,1971 参照]が両者を批判することで基本的な構図が作られた社会調査論争を指す2。
戦後日本社会学の認識転換を問う本稿が、この論争を検討素材とする理由は2つある。第1 に、論争の参与者の世代的・研究傾向的特性(似田貝1943 年生,中野1920 年生,安田1925 年生)から見て、この論争には1970 年代当時の日本の社会学者が抱いていた社会調査の捉え方の縮図が示されていると考えられるからである 3。それはまた、ドイツ社会学とアメリカ社会学という2つの岩盤が戦後の日本列島で30 年近くかけてぶつかって生じた亀裂が、地ならしされて消える前に残した、社会学的研究の認識目的とその達成手段である社会調査と の連関に関する基底条件の貴重な記録でもある 4。第2に、この論争は、社会調査を「調査者‐被調査者」関係に基づいて形成される認識行為とする前提を共有している点で、単なる方法論の問題としてではなく、認識行為としての社会学的研究の捉え方を問うことのできる素材だからである 5。
現時点から見れば、戦後ほぼ30 年が経過した1970 年代前半の段階で「調査者‐ 被調査者」関係に焦点を当てた社会調査論争が発生したということは、戦後導入された社会調査が、当時の日本社会で研究行為の一部として広く根づいてきた証左だと言える。その意味で、70 年代前半は戦前から続く社会学的研究のあり方が戦後的形態へと転換する過渡期だったとも言える。そしてまた、「住民運動調査」を巡って論争が開始された1974 年は、第1次オイル・ショックによって戦後の高度経済成長期が終焉を迎えた、日本社会の歴史的な曲り角でもあった。このような意味で、この論争の震源は思いのほか深く、論者間の断層は複雑に錯綜していると推定される。したがって、以下で本稿が整理する論点は、論争が開示したさまざまな断層のごく一部分に過ぎないが、この論争の検討を通して、戦後に導入された社会調査法を社会学的研究に組み込む過程で、社会学者がどのような認識前提をもっていたかを掘り起こし、70 年代前半に孕まれていた「認識の転換」の可能性を明らかにすることによって、戦後日本社会学の「社会調査の知識社会学」における問題の所在の一端を提示することが、本稿の課題である。
論争の起点は、似田貝の「社会調査の曲り角—住民運動調査後の覚書—」[似田貝,1974: 以下、この章での本論文からの引用は頁数のみを記す]によって作られた。似田貝は、「六〇年から七〇年にかけての地域社会の変動によって、従来の地域社会論やその調査法が現実に適合的ではなくなってきていることから、これまでの『地域調査法』を再検討し、加えて現代社会の構造的な課題を発見しよう」[1]という問題意識をもって、「昨年[1973 年]末から今年の春まで、数人の友人達と『新全国総合開発』に対して反対運動を行なっている地域を、かなりがむしゃらに調査してまわった」[1]なかで体験した、「住民運動の担い手」が調査者や調査そのものに示した「“いらだち”や“腹だたしさ”」[4]の背景を、住民運動調査における計量化などの調査技法の意味と、そうして行われる調査への被調査者の対応の仕方とを具体的に対照しながら考察する。
似田貝はまず冒頭部分でみずから体験した「住民運動調査の困難性」[1]を、「第一に、住民運動参加者の、研究所や研究者に対するかなり強い不信感。/第二に、研究者や調査主体の、〈issue〉へのかかわり方の、執拗なまでの問い。/第三に、住民運動参加者の、研究者や調査者への情報・知識の要求」[1‐2]の3点に要約する。そして、調査活動の具体的な場面での考察を通して、これらの困難性が、「近代科学の前提となっている、『主体』と『客体』の分離という認識前提が、あるいはまた、こうした認識前提による研究者の調査活動が、危機に瀕している」[6]ことに由来するとし、この事態を「研究者が自己を大衆や住民の一員であることを感じることなしに、客体としての大衆を論じることのできた、近代社会科学の『幸福な時代』の終焉」[6]と捉え、住民運動を担っている「人々の[調査及び調査者に対する]〈専門性〉と〈共同行為〉への疑念や不満は、より根源的には、今日の社会科学における問いの立て方、実証の仕方、あるいは、社会科学者の存在の仕方についての根本的な反省と結びつかざるをえない」[3]という点で、「調査という研究者の活動が一つの曲り角に来ている」[6]ことを意味していると結論する.... →続きを読む(頒布案内)