社会学的探究が理論研究と調査研究の両輪から成り立っていることに異議をさしはさむ者はおそらくいない。かつて理論的志向の強いタルコット・パーソンズですら、「理論と経験的事実の互酬性」を強調していたし、ロバート・マートンはそのスローガンを「中範囲の社会学理論」とパラフレーズし、理論的研究と調査研究とのバランスを取ることを強調していた。しかし、その関係をどのように理解し、それにどう関わるかという点については意見が分かれてこよう。理論的志向の強い社会学者と経験的志向の強い社会学者。それはときに縄張り争いの観を呈し、理論「対」調査というふうに誇張されたりする。理論的志向の強い社会学者は、調査を無視することこそないだろうが、ときとして軽視しがちであるし、逆に経験的志向の強い社会学者は、理論について多くを語らなかったりする。さらに、理論的志向の強い社会学者のあいだでも、社会学の理論構築についてはいまだ意見の一致を見ず、である。かつてのセオリー・ビルディング論に忠実に、計量化・フォーマル化をもって社会学の理論構築とすべし、という主張があるかと思えば、逆に、計量化・フォーマル化のみに志向することをせず、理論構築の段階を複数設?し多次元的な社会学理論をめざすべき、という主張もある。他方で、経験的志向の強い社会学者のあいだでも、社会調査の方法については、いまだ意見の一致を見ず、である。理論家のあいだの論争と同様、計量的か記述的かをめぐって、社会調査の「優劣」の議論が今なお続いている。しかし、結論ははっきりしているように思われる。複雑な社会的現実を明らかにするためには、理論研究と調査研究の両方が必要とされるであろうし、演繹的であれ帰納的であれ、計量的であれ記述的であれ、現実を鋭く描き出せるものであれば、どちらでもよいし、折衷してもよい、それが社会学ではないだろうか。
本論文では、シカゴ大学社会学部とハーバード大学社会関係学部の成立事情に関して、若干の知識社会学的な考察を試みることで、社会学理論と社会調査の関係を明らかにしてみたい。第1に、社会学、とくにパーソンズ社会学における「科学的」方法の役割について議論する。パーソンズ社会学において、心理学的「行動主義」の方法が、「新行動主義」を経由して、「体系的」なかたちで採用されたことを見るであろう。第2に、シカゴ社会学とハーバード社会学における社会学理論と社会調査の関係について見ていく。経験的志向の強いシカゴ社会学に対して、理論的志向の強いハーバード社会学が社会調査をどのように位置づけ、教育していったかという点を議論するだろう。最後に、ハーバード社会学がアメリカ社会学全体に対してなした貢献とその限界とを指摘して結びとしたい。
社会学は本来科学的であるべきはずなのに、現在、科学的社会学に対して根本的懐疑が向けられている。同様に、社会学における調査研究も本来科学的であるべきはずなのに、科学的な社会調査、たとえば、計量的な調査研究に対しては、異議が存在する。理論的志向の強い社会学者は、計量的な調査研究に対して異議を唱えてきたし、質的な調査研究に志向する社会学者も、計量的な調査研究の意義については懐疑的である。しかし、結論ははっきりしている。社会学は科学的であらねばならない。しかしその「科学的」の意味は、客観主義に還元するかたちで理解されるべきではなく、オーギュスト・コントの言う意味で「実証的」かつ「実践的」、そしてパーソンズの言う意味で「体系的」でもある。社会学の方法は、客観的であることもあれば、主観的であることもある。その対象はつねに人間であり、その人間、そしてその人間が作り出す社会は個人主義的にも集合主義的にも描き出される。したがってその方法はある意味で「折衷的なもの」とならざるをえない。ときとして客観主義的・心理学的な意味で行動主義的な社会学「理論」が登場したり、ときとして主観主義的・内観的な、あるいは観念論的な社会学「理論」?登場したりする。
こうした社会学の前提を理解するならば、社会学における調査の方法に関する論争も論争ではなくなってこよう。客観主義的な意味で科学的であろうとするならば、計量的な調査方法が採用されるであろうし、逆に計量化を好まないのであれば、経験的なモノグラフ的調査方法が採用されるであろう。その優劣をめぐってときに論争が起こるわけだが、これは、どちらが偉い、偉くないという問題ではないだろう。社会学の方法が折衷的なものとならざるをえないのと同様に、社会調査の方法も折衷的なものとならざるをえないからだ。
社会学の歴史を振り返ってみよう。社会学は、コントの時代より今日まで、科学的であることを身上としてきた。「観察」することこそ、社会学的探求の第一歩であることは今も昔も変わらない。しかし、社会学的探求が観察の水準でとどまるならば、それは「ジャーナリスティック」となり、ある程度の経験的一般化ができたとしても、それは「理論」たりえない。観察、あるいは経験的事実は、理論に導かれ、帰納的な記述、あるいは演繹的な説明が加えられねばならない。こうした科学的な社会学の方法の規準に関する議論は、コント以後、H. スペンサーを経由して、É. デュルケムに引き継がれた。しかし、科学的な社会学の方法の規準をはじめて「体系的」なものにしたのは、パーソンズであった。パーソンズは、『社会的行為の構造』[Parsons, 1937=1974-1989]において、当時、(アメリカ)社会学の方法の規準として採用されていた「観察」、あるいは「道徳」、さもなければ「有機体論的」説明、そのどれにも与せず、社会学における科学的かつ「体系的」な理論構築に志向した。パーソンズは、A. N. ホワイトヘッドや L. J. ヘンダーソンの著作にしばしば言及しながら、「なまの事実というものは存在しない」とか「事実とはある経験に関する言明である」とか「事実は概念図式によって構成される」というような記述を行っている。事実・観察は理論によって基礎づけられる。パーソンズにとって、何よりも社会学理論は、科学的であらねばならない。しかしその科学的説明は「体系的」であらねばならない。確かに、科学的であろうとする社会学の方法の規準は、すでに古典の社会学者、たとえばデュルケムによって議論された。しかし、科学的かつ「体系的」であろうとする社会学の方法の規準は、パーソンズによってはじめて明確に議論されたのであった。
それでは、なぜパーソンズは、1930年代のアメリカにおいて、体系的な方法を社会学において確立しようと目論んだのであろうか。ここでは2つの理由をあげておきたい。第1の理由は、1930年代の心理学的行動主義のインパクト、である。当時、アカデミズムの世界にとどまらず、アメリカでは、一大「心理学ブーム」が起こっていた。その火付け役となったのは、ある個人的な理由で大学を追われた J. B. ワトソンが一般向けに書いた一連の「心理学本」であった。パーソナル・リレーションシップから育児にいたるまで、パブロフ流の刺激−反応(S-R)図式的、言い換えれば「客観的」で「観察」に基づいた科学的方法が一般の人にも歓迎されるようになった。アカデミズムの世界では、科学的研究と教育が、一般の世界では、科学的育児がもてはやされるようになったのである。心理学における「行動主義」がアカデミズムの世界に与えた影響は小さくなかった。心理学という学問領域において、1930年代の心理学は、行動主義に基づいた実験心理学一色に染まり、心理学会も「行動主義をもって心理学の方法とする」をスタンダードとした。また、その隣接科学である社会学も心理学における行動主義の影響を強く受けることとなった。当時、たとえば、シカゴ大学を中心とする社会学のシカゴ・グループにおいて、伝統的な「観察」社会学の方法に加えて、「客観的」、「計量的」な科学的社会学の方法も採用されるようになった。
こうした心理学的な社会学の方法の基準に異議を唱えたのが、パーソンズであった。パーソンズは、行動主義の理論的意義を一定程度認めつつも、当時のアカデミズムの内外を問わず広く流布していた「心理学的還元」に我慢できなかった。価値・規範など観念的要因が人間行動に与えるインパクトに関心を寄せ、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の英訳を試みていたパーソンズにとって、価値・規範といった「観念」の役割を無視して、刺激−反応図式にすべて還元して説明しようとする行動主義はまったく許しがたいものであった。少なくとも、条件的要因には、遺伝・環境といった生物学的・心理学的要因に加えて、もう少し広く社会的な環境という要因が加わってくるだろうし、あわせて、規範的要因として、価値・規範といった観念的要因もわれわれの行動を決定する重要な要因となるだろう。パーソンズは、行動主義をもって、「科学的」と同義とする、という当時の主流の科学方法論に真っ向から対立し、後に心理学において主流となる新行動主義の運動にも配慮しながら、脱行動主義的な方法を模索し、これをもって「科学的」とする、という立場を取るに至る.... →続きを読む(頒布案内)