社会学的研究の対象とは何であろうか。この問題は、かなり以前から、さまざまな社会学者たちによって論議されてきた。その答えは多様である。しかし、それらの諸見解における共通点に注目するならば、社会学的研究の対象とは、社会生活を送るすべての人びととその産出物、すなわち、「社会的事実」ということになるであろう。
しかし、社会学の領域では、その研究対象、すなわち、「社会的事実」の重要な構成要素が、まさに、意識(思考や感情など)をもった自分たち人間であり、しかも、一目瞭然に観察できるような状況にはない、複雑でダイナミックな相互行為やその集合体として存在していることが、重要な問題であり続けてきた。すなわち、何らかのアプローチの方法を樹立することなしには、その研究対象への接近そのものが、不可能なのである。
社会学の領域では、社会的行為者の意識内容に注目すると同時に、その意識からはこぼれ落ちているが、研究者の集めたデータの分析を通すと初めて見えてくる「事実」の重要性にも配意してきた。また、そのことと無関係ではないが、社会学者が社会の中に見出す「社会的事実」と、一般的生活者が見出すものとのあいだにどのような関係があるかも常に問題とされてきた。しかし、どちらにしても、社会学者が「知るに値するもの」として、すなわち、「問題」として取り上げたものが、社会学の対象になるということには変わりがない。
C.W.ミルズは、「社会学的想像力」について、次のように書いている。ごく普通の人間に「必要なものは、そしてかれらが必要だと感じているものは、情報を駆使し理性を発展させることによって、彼ら自身の内部や世界におこることがらを、明晰に総括できる精神の資質にほかならない。この資質こそ、……ジャーナリストや学者、芸術家や公衆、科学者や編集者が、社会学的想像力というものに期待している精神の資質なのである」[Mills, 1959=1995: 6-7]。
「社会学的想像力を所有している者は巨大な歴史的状況が、多様な諸個人の内面的生活や外面的生涯にとって、どんな意味をもっているかを理解することができる。社会学的想像力をもつことによって、いかにして諸個人がその混乱した日常経験のなかで、自分たちの社会的な位置をしばしば誤って意識するかに、考慮を払うことができるようになる」[Mills, 1959=1995: 6]。ここには、ジャーナリストや学者たちへの多大な期待と同時に、その認識力への不信感が見て取れる。
しかし、そのような想像力をもつひとびとのみが、社会的事実の真のあり方に接近し、それらについて「知っている」といえるのであろうか。もし、そうだとするならば、他の社会的行為者たちは、自分たちが参加している社会的事実について、一体、何を知っているのだろうか。たとえば、構造主義の立場によれば、個人は、自分の行為の本当の意味について知らず、それを観察する研究者だけに、全体を構成する関係の網の目としての個人の位置や行為の真の意味が見えるとされる。ところが、最近の社会学では、社会的行為者たちは、自分たちの行為の意味を、「知っているか」「知らないか」のどちらか一方であるというような二分法でこの問題を考えることは不適当であることを、指摘するものも多い。それだけではなく、実は、「社会的行為者」というこの概念の内容は、多様で、単純に一括りにできるものではない。ある社会的行為者たちは、知っていることを、他の社会的行為者たちは、知らないことが、当然の事ながら多々あるのである。
本論文では、どのような社会的行為者たちが、自分たちの行為の意味をどのように「知っている」のか、というこの問題について、まず、いわゆるポスト・モダン的立場や、ブルデューの見解に則して、「誰が」「何を」「知っている/知らない」のか、という点に焦点を当てながら、検討していきたいと思っている。そして、その延長線上で、この「知っている」と「知らない」という区分そのものの意義も考えてみたいと思っている。→続きを読む(頒布案内)