本稿の主題は、社会的行為論が社会的な危機を背景に成立した点を踏まえ、社会的行為論の今日的な意義と課題を引き出すことにある。
周知のとおり、社会的行為論の展開は、ヴェーバーの「理解社会学」の成立を端緒とする。彼の「理解社会学」の構想は、19世紀に展開された精神科学、「生の哲学」や「新カント派」などの流れの影響下に、19世紀後半のドイツでの社会科学方法論争を乗り越えるかたちで生み出された。ヴェーバーの「理解社会学」の方法論は、「ロッシャーとクニース」(1903, 05, 06)や「社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性」(1904)などで断片的に示され、さらに「理解社会学のカテゴリー」(1913)、「社会学の根本概念」(1921-22)で定式化されるに至った。これら一連の論稿は、彼が精神疾患から復帰した1903年以降に発表された。この点を踏まえると、社会的行為論は、社会学理論の学説史上、20世紀初頭に登場したことになる。
ヴェーバーの「理解社会学」が登場するまでの社会学方法論は、社会を諸個人間の「心的相互作用」から捉えるジンメルの「形式社会学」もあったが、生命有機体との類比をもとに、社会秩序を可能ならしめる諸法則を捉えようとしたコントの「実証主義」の試みや、個人に先立つものとして実在することを前提に社会を捉えようとしたデュルケームに代表される社会実在論の展開が支配的であった。こうした展開に対して、ヴェーバーは、社会実在論が等閑視した行為者の見地から、行為により社会が主観的に構成される局面に社会科学の方法論的基礎を求める「理解社会学」の構想を打ち出した。
「理解社会学」の方法論は、その理論的基礎を行為に求める点で、社会実在論と対極をなす。「理解社会学」の登場により、「社会実在論」対「社会名目(唯名)論」、あるいは社会学方法論の文脈で表現すると〈方法論的集合主義〉対〈方法論的個人主義〉という20世紀社会学の理論的構図を大きく規定した〈社会と個人〉という理論パラダイムが、誕生した。
こうした理論構図のなかで、ヴェーバー以後の社会的行為論の展開としては、1930年代の2つの展開、すなわち「理解社会学」への哲学的基礎づけを試みたシュッツの『社会的世界の意味構成』(1932)における「自然的態度の構成的現象学」(現象学的社会理論)と、行為の体系的含意の析出を試みたパーソンズの『社会的行為の構造』(1937)における「主意主義的行為論」が重要である。
これら以降には、ハバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』(1981)、ルーマンのシステム論、ガーフィンケルに始まるエスノメソドロジーの諸展開、アレクサンダーのネオ機能主義などにも、社会的行為論は批判的に継承され、20世紀社会学の多様な理論展開の足場の1つを担ってきた。
以上のような展開をみせた社会的行為論の今日的意義は何にあるのだろうか。この論件を考察するには、まず、社会学方法論の次元で、主観性を社会学の問題圏にみいだし、社会的行為論の理論的基礎を固めたヴェーバーの「理解社会学」がもつ理論的意義をおさえるとともに、シュッツとパーソンズがどのようにヴェーバー理論を継承したのかをおさえる必要がある。1ではこれらを追う。しかし、上述の論件は社会学方法論の次元での考察に留まるだけでは不十分であろう。ヴェーバー、シュッツ、パーソンズの理論的営みがなされた時代的な背景に踏み込み、そこからそれぞれの営みがもつ意義を捉え返す必要があるのではないだろうか。2では、三者の理論的営みを時代的な背景から捉え返し、社会的行為論そのものに内在する理論的性格を引き出す。そして3では、それまでの行論を踏まえ、社会的行為論の今日的意義と課題を引き出したい。
ここでは、まずヴェーバーの「理解社会学」の理論的意義を示し、それをシュッツとパーソンズがどのように継承したのかを確認し、三者に共通する社会的行為論の理論的意義を示す。
まず、ヴェーバーの「理解社会学」の基礎的な考え方を、「社会学の根本概念」の第1節「社会学と社会的行為」に従い、確認しておこう。同箇所でヴェーバーは、「社会学」を「社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学を指す」と定義した[Weber, 1922=1972: 8]。彼は、この規定を前提に、「社会的行為」を、「単数或いは複数の行為者が主観的な意味を含ませている限りの人間行動」であり、しかも「単数或いは複数の行為者の考えている意味が他の人々の行動と関係をもち、その過程がこれに左右されるような行為」と定義した[Weber, 1922=1972: 8]。以上からすると、ヴェーバーの「理解社会学」は、社会的行為の主観的意味に焦点を合わせ、社会現象を行為者により主観的に構成される意味現象として捉え、その諸相を解釈的に理解する視角の上に成り立つと、ひとまず整理できる。しかし、社会(科)学において〈主観的なもの〉の把捉がなぜ必要になるのか。そして社会(科)学はいかにして〈主観的なもの〉を捉えることができるのか。「理解社会学」の理論的基礎に関わるこれら2つの問いの前者からみていこう。
ヴェーバーの「理解社会学」は、19 世紀ドイツの社会科学の方法論に「破産宣告」[庁,1995: 59]を行ない、新たな社会科学方法論を創造する営みとして構想された。ヴェーバーが論駁の矛先を向けたのは、ロッシャーやクニースらに代表される「歴史主義」、およびミュンスターベルク、リップス、ゴットル、クローチェらの認識論など、19世紀のドイツ社会科学において支配的な方法論であった。「歴史主義」とは、市民社会の論理として興隆したロックやルソーらの啓蒙主義に対抗するドイツのロマン主義の一展開である。その主題は、歴史的現実の個性の把握および歴史の全体像の探求と、これら2つを綜合することにより、ドイツの歴史的伝統の意義を示すことにあった。その方法論は、歴史的現実の経験的考察による個性把握的な方法論と、「民族」(ロッシャー)や「人格」(クニース)のような形而上学的な概念を前提に、「法則的必然性」[Weber, 1903-06=1955: 58]や「普遍的な概念」[Weber, 1903-06=1955: 41]など、歴史的現実のなかから歴史の進歩や発展に関する自然主義的(自然科学的)な法則を導き出す客観化的方法論から成っていた。前者は、主観化的方法論につながる歴史の個性的把握をめざすのに対して、後者はその客観化的・法則的把握をめざす点で、両者の方法論は本質的に異なる。しかし、「歴史主義」の方法論は、2つの主題を綜合する際に、歴史の個性的局面の把握を自然主義的な客観化的法則概念によって粉飾し、主観化的な方法論によって得られる学問的認識を、客観化的な方法論によって得られるそれに還元する論理的誤謬を犯す。
この点に端的に示されるように、「歴史主義」は自らの方法論の根底に形而上学的前提に基づく法則概念や客観的概念を滑り込ませるため、そこから引き出される学問的認識や発見物は、学問的な装いをまとった形而上学的で個人的な信念の自己追認にすぎず、こうした方法論は論理的に破綻していることをヴェーバーは看破した。すなわち「歴史主義」、あるいはもう少し広い文脈でいうと19世紀の「歴史哲学」の方法論は、学問的認識を形而上学的なものに貶めるだけでなく、個性把握的な主観化的方法論の十全な展開を阻害してしまう。
では、いかなる対案が可能か。まず必要になるのは、19世紀の「歴史哲学」の根底にある形而上学的概念や、それを前提とする法則化的・客観化的方法論(客観化的方法論を前提とする主観化的方法論も含めて)を清算することである。この清算の行き着く先は、形而上学的概念や法則化的・客観化的方法論により覆い隠された歴史的現実の個性的な局面を顕わにさせ、学問的認識から形而上学的誤謬を一掃するような主観化的な学問的方法論である。→続きを読む(頒布案内)