現実は、人々が互いに物語を語り合う中で構成される。そのような認識が近年多くの社会学者を魅了してきた。本稿は、そこでいう物語に対して〈語りえないもの〉が占める位置を測定しようとする試みである。その測定の手がかりとするために、記憶論の分野で1990年代以降に注目を集めるようになってきた対立、いわば記憶の政治に注目してみる。
この対立を形成する軸(の少なくとも重要な1つ)は、記憶についての社会構成主義的な認識に対する対応の如何にある。もちろん社会構成主義といってもその内部には様々な流派があるわけだが、ここでは例えば野口裕二の次のような言明をその範例と考えておく。
世界がまずあって、それが言葉で表現されるのではなく、言葉が先にあって、その言葉が指し示すようなかたちで世界が経験されるというのが、社会構成主義の主張である。[野口,2002: 17]
野口のこの言明は、少なくとも次の2つの解釈を許す。1つは、世界の存在が言葉によってつくられるという解釈(存在に対する言語の先行)、もう1つは、世界の存在についてはそれを前提した上で(あるいは判断を留保して)、それが経験される形式が言語によって規定されているという解釈(経験に対する言語の先行)である。前者を強い構成主義、後者を弱い構成主義と呼んでおくことにしよう1。
本稿が特に注目したいのは、弱い構成主義の立場を取った場合に物語と〈語りえないもの〉との間に生じてくるある種の緊張関係だ2。それは、野口の言葉で言えば、「言葉が指し示すようなかたちで世界が経験される」という言明が、「世界がまずあって」という部分を括弧に入れたまま完結し得るのだろうか、という疑問に関わっている。あるいはこう言い換えてもよい。〈語りえないもの〉は、それを単純に前提したり、判断留保したりすることによって、物語を語る過程から切り離してしまえるのだろうか、と。
そこで、以下、記憶の政治が展開された二つの主要なフィールド、心理学的記憶論と歴史哲学とを順にとりあげ、それぞれの領域で構成主義と〈語りえないもの〉とがどのような対立を形成してきたのかを確認する(2章、3章)3。ついでそこから学びうる点を整理して、物語と〈語りえないもの〉との間の位置測定を試みる(4章)。以上の作業を通して、〈語りえないもの〉へ社会学的に接近するための足掛かりを得ることができれば、この論文の目的は達せられたことになる。
心理学の領域では、早い時期から構成主義的な見方が定着しており[Bruner, 1986, 1987, 1990]、記憶論もまたその影響を受けながら展開されてきた。その中でもここで紹介しておきたいのは、フラッシュバルブ記憶および記憶捏造に関する実験である4。それらの諸実験が示唆しているのは、記憶メカニズムが、経験した事実をありのままに貯蔵し再生する過程なのではなく、むしろ現時点から遡及的に再構成していく過程であるということだ。順をおって見ていこう。
そもそも人が細かいことを忘れてしまったり、記憶違いしたりすることは日常茶飯事である。それに対して、印象的で衝撃的な出来事の記憶は、鮮明で明瞭、それゆえ歪みにくいと考えられてきた。そのような記憶をフラッシュバルブ記憶と呼ぶ。これはケネディ大統領暗殺事件のニュースをきいたときの状況をどの程度記憶しているかという研究において見出された現象で、他の出来事と比較してこの事件のニュースを聞いた際の状況だけは多くの人にとってきわめて鮮明に記憶されていたのである[Brown & Kulik, 1977→1992=1994]。そこから、印象深い出来事に接したりそのニュースを聞いたとき、人は、そのときの状況をあたかもフラッシュをたいて写真に撮ったかのように細部にいたるまで鮮明に記憶し、しかもその記憶は長く鮮やかなままでありつづける、と考えられたのであった。
だが1980年代に入るとこのような考え方に対して様々な反証が提示されるようになる。代表的な研究はアーリック・ナイサーが行なったスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故に関する調査であろう[Neisser & Harsch, 1992]。ナイサーはこの事故の翌日授業で学生にこの爆発事故をどのようにして知ったか、その際の状況を詳しくレポートさせた。そしてこの学生たちの追跡調査を行なったのである。1年半後、多くの学生は記憶を劇的に変容させていた。例えば、次のように。
(1986年事件翌日の説明)私は宗教の授業を受けていました。誰かが入ってきてそれについて話し始めたのです。私はそれが爆発し、先生の教え子たちがみんなでその惨事をみていたということしか詳しくは知りませんでした。
(1988年秋の回想)爆発について最初に聞いたとき私は新入生寮の部屋でルームメイトとすわってテレビをみていました。それはニュース速報として流れ、私たちは二人ともたいへんショックを受けました。[ibid.]
記憶が変容してしまった学生のうち何人かは、最初に自分が提出したレポートをみせられても、そしてそれが自分の筆跡であることを認めたうえでもなお現時点での記憶のほうが正しいという確信を捨てられなかったという。つまりフラッシュバルブ記憶は、いかにそれが鮮明でありたしかなリアリティを備えていても、最初の記憶からは大きく変形してしまっている可能性があるということだ5。
だが、いかに歪んでいるとはいえ、フラッシュバルブ記憶は何らかの形で実際の出来事とつながっていると考えられている。例えば、被験者は、細部はともあれチャレンジャー号の爆発のニュースを聞いたという事実は記憶していたのであるから、その意味では、遡及的に再構成されるとはいえ、それはあくまでも事実とのつながりを保持するかぎりでのことである。エリザベス・ロフタスらの「ショッピングモールの迷子」実験は、まさにこの事実とのつながり自体を打ち消そうとするものである。この実験は、次のようなものだ。
成人の被験者に対して、5歳の頃の出来事をいくつか物語化したものを読ませる。この中には、ショッピングモールで迷子になったという物語が含まれているのであるが、これは実際にはなかった出来事である。読んでもらったあと、それぞれの出来事を思い出せるかどうか尋ねると、迷子事件について約25%の被験者が思い出したと答え、後のインタビューでもおぼえていると回答した[Loftus, 1997=1997, 1994=1998]6。
これらの実験は、記憶の遡及的再構成が、事実の有無と非常に弱いつながりしかもっていないのではないかということを示唆している。この観点からすれば記憶の研究は、事実の有無については判断を留保したまま、想起の時点での再構成のあり方のみに関心を集中すればよいことになるだろう7.... →続きを読む(頒布案内)