本稿は、教育の場において重んじられている教師による児童生徒への説得について、その前提と帰結を追究したものである。あらかじめ結論を述べるならば、教育の場における説得は最終的には教師の権威に根拠づけられており、説得を重んじること自体が説得の可能性を危うくする危険性をはらんでいる。なお、本稿では説得を、「言語的手段によって相手を納得させ、相手の態度や行動を自分の意図した方向に変容させる行為」と定義する。この定義は、深田博己ら[深田・木村・牧野・樋口・原田・山浦, 2000: 145]および今井芳昭[今井, 1996: 88]を参照したものである。
児童生徒の教師に対する公然たる不服従が顕在化した1980年代以降、教育の場における説得の意義が強調されている。たとえば、学校の教師を主たる読者と想定した雑誌『現代教育科学』は、1986年に説得の技術について特集を組んでいるが、そこでは、説得によって対処しうる事態として、「生活習慣の乱れ」「授業妨害・拒否」「いじめ・問題行動」「友だち関係のゆがみ」「勉強ぎらい」が挙げられている[岡田, 1986][坂本, 1986][佐藤, 1986][宮崎, 1986][長谷川, 1986]。阿部昇も「今、全国的に広がっている指導不成立の状態を、打ち砕き、指導を成立させる最も有効な教育技術こそ、「説得」なのです」と述べている[阿部, 1989: 3]。
教育の場における説得への期待は、我が国に限ったことではない。たとえばアメリカでも、教師−児童生徒間の上下関係を見直す契機として、あるいは民主主義社会の成員にふさわしい意思決定能力を育成するため、等の理由から説得的コミュニケーションを重視する言説を見い出すことができる[Alvermann, 2001][Fives & Alexander, 2001][Hynd, 2001][Murphy, 2001]。しかしアメリカにおいては同時に、説得によって対処すべき、または対処しうる事態とそうでない事態が明確に区別されている。つまり説得に限界があることがあらかじめ前提されている。たとえばAlvermannは、説得的コミュニケーションによって生徒をリーディングの学習へと動機づけることに成功した実践を報告しながらも、「説得としての教育になしえないのは、リーディングが苦手な青少年に、彼らは読み書き共同体の価値ある一員であり、その共同体においては学校的な読み書き能力が他のすべての読み書き能力に対して特権的な位置を占めていると納得させることである」と述べて[Alvermann, 2001]、学校に懐疑的・敵対的な児童生徒の存在と、彼らを説得して学校カリキュラムの正統性を納得させることの困難さを指摘している。これに対して我が国では、「むしろ一度で納得させられる説得は、まれにしかないと言った方がいいかもしれない。/だから、焦らず怒らず、そして粘っこく何度も繰り返して説得することは、ぜひ必要なことである(傍点引用者)」[阿部, 1989: 34]と、説得の断念を否定する傾向がある。
また、喫煙や教職員に対する挑戦的態度といった相対的には軽微な逸脱行動といえども、アメリカでは放校を含めた懲戒によって対処しうると教育行政当局によって定められている[加藤, 2000: 80-81]。これに対して我が国では、実態として恐喝や傷害に近い「いじめ」や、不正薬物の使用、売春、中学生による教師殺害事件等の犯罪に対してさえ、教育行政当局は「心の教育」による対処を求めてきた[文部省「いじめ対策」緊急会議, 1995][中央教育審議会, 1998]。端的にいえば「心の教育」とは、「いじめ」の反道徳性やいわゆる「命の大切さ」について児童生徒の納得を促すことであり、その手法のすべてが言語的コミュニケーションではないにせよ、カウンセリングをはじめとして言語が大きな比重を占めることは容易に予想できる。このように、わが国の学校教育は、説得に対する信頼が最も厚い場の一つである。児童生徒の不服従さえ今日に至るまで解決されていない1にもかかわらず、説得の有効性に疑義を呈する言説は、諏訪哲二、河上亮一ら、1990年代初頭から一貫して説得の意義を疑問視してきた論者[諏訪, 1990: 41-54][河上, 1991: 74-93]を除けば、今もって見あたらない。
しかし、このような説得への信頼の一方で、説得がなぜ可能なのかについての考察はほとんどない。たとえば、説得は社会心理学における主要なテーマの一つであり、小中学生を被験者とした研究も見られる[吉田・深田・浜名・武川,
1993][深田・木村・牧野, 1997]が、どのような説得が効果的かに関する研究の多さとは対照的に、なぜ説得は通じるのかに関する研究は見あたらない。説得に関する国内の研究論文143点、著書11点を収集してその傾向を分析した深田らも、我が国の説得研究の課題の一つとして「説得効果に主たる関心を向ける効果研究から、説得の生起メカニズムを重視する説得過程研究へ」を挙げている[深田・木村・牧野・樋口・原田・山浦, 2000: 161]。こうした傾向は国内にとどまらない。たとえば説得に関する主要なモデルの一つである精査可能性モデル(the Elaboration Likelihood Model)[Petty & Cacioppo, 1986]においては、説得的メッセージの内容について考える(精査する)被説得者の動機と能力のレベルによって、説得の効果を規定する主要な要因が変わるとされている。このモデルの主眼は説得の効果を規定する要因を中心的ルートと周辺的ルートに二分した点にあり、精査の動機や能力はそれらのルートの効果を規定する要因として位置づけられている。説得的メッセージ(中心的ルート)の効果を高める、つまり説得を可能にする精査の動機や能力は所与とされ、その源泉の追究は主要なテーマとはされない。
こうした状況下で、教育の場における説得の可能性に言及している数少ない論者の一人に土戸敏彦がいる。土戸はいう。
根拠は、その根拠性を承認するものにとってしか根拠でありえないのだ。このことは、ほかならぬ根拠のはなはだしい無力を示している。要するに説得性は消え失せるのだ。むき出しの根拠は、かえって神通力を失うのである。ここから何が帰結するか。むしろ根拠との距離こそが、説得性を生み出すということである。ただしその場合、その距離は距離として感じられることなく、つねに根拠とは接するほどの近さにあるという幻想を伴っていることを条件とする。こうして逆説的なことに、根拠からの隔たり、根拠づけの遅滞が根拠の力を高からしめるのである(傍点著者)。[土戸, 1999: 81]
しかし、教師が頻繁に児童生徒を説得することは、それ自体、説得の根拠を問うよう児童生徒に促す。説得性を生み出す「根拠との距離」を失わせるこのような問いの帰結は土戸によっては論じられておらず、その追究は課題として残されている。本稿は土戸の考察を承けて、説得の根拠を問うことの帰結を追究するものであるが、それは同時に、それ以上遡及できない説得の根拠(前提)を問うことでもある。→続きを読む(頒布案内)