1970年代から 80年代にかけて高校進学率が 90%を超えるにつれて、無目的進学者や不本意入学者、中途退学者の増加が問題視され始めた。これに対し文部省は高等学校の多様化を図ると共に、生き方指導としての進路指導に戻る方針を掲げた[中央教育審議会,1991: 22-25; 文部省,1993: 261]。その目標は「生徒が自らの生き方を考え、将来に対する目的意識を持ち、自分の意思と責任で自分の進路を選択する能力・態度を身に付けることができるよう、指導・援助すること」であり、そのために高校や職場への啓発的な体験学習が体系的・組織的に展開されている[文部省,1994: 108-118]。これは中学生に具体的な将来の「生き方」を決めさせ、そこに向けて主体的に進路を選択させる方針といえよう。
しかし、それは現代の中学生に具体的に接合しているとはいいえない。というのも、彼らは高校進学を〈当然のこと〉と捉え、あえて表現される進学動機の多くは「就職のため」というステレオタイプ化された内容に収束しているからである。もしも高校進学を生き方の問題とするならば、中学生それぞれにユニークな動機が展開されず、迷いや苦悩を伴った沈潜がみられないこの現状は1、彼らの〈生〉への取り組みの弱さの顕れとも考えられるだろう。けれど、そうした結論は短絡に過ぎよう。なぜならば、中学生が高校進学という転機をどのように捉えているのか、つまり「彼ら自身(当事者)の視点」から考察することが未だ充分とはいえないからである。本稿では、こうした現代の中学生が抱く〈あいまいな進学動機〉が構成される過程を探ることにしたい。
だが、「当事者の視点」はどのようにすれば担保できるのだろうか。本稿はそれを得るために、A.シュッツの自然的態度の構成現象学に依拠する。シュッツは社会的現実を「様々な他者との相互行為のなかで日常生活を送る人々が、その常識的な概念から経験する、社会的・文化的世界内の出来事や対象の総体」[Schutz, 1962: 53]と定め、これについて組織化された知識を獲得することを社会科学の目標とする。つまり、人々の常識的な準位で構成された諸概念を対象に定め、その構成のされ方に沿って科学的な概念から再構成するのである[ ibid.: 6; Schütz, 1932: 6-7]。本稿はこの認識論的=方法論的視座に依拠する。これにより、高校進学をめぐる中学生の意識過程を、彼らが高校進学をめぐる常識的な概念から解釈した意味内容として捉え、それを彼らの意味構成の仕方に沿って再構成する。置換すれば、シュッツの認識論に依拠することで、「中学生自身の言葉や概念から構成される主観的な意識の世界」が考察の対象となり、彼らの意識の構成過程を理解する重要な領域が捉えられるのである2。
本稿では中学生の高校進学をめぐる意味構成を捉える資料として、ある進学塾の中学3年生の手記(「なぜ高校へ進学しようと思うのか」)を用いる3。この資料は、進学塾という場(中学生が「今、ここ」で行ないつつある進学行動をその場で直接振り返ることができる)と、自由記述形式の手記(彼らが考える内容をほぼそのままの形で形象化可能になる)の2点を特徴とする。考察の手順は、まず中学生の手記の内容を再構成するための諸概念を整理し、次に彼らの進学の意味構成の対象となる社会状況を概観した上で、類型的な3つの事例の考察に進む4。
シュッツは諸個人の「体験の流れにおける素朴なとりとめのない生」を「持続(durée)」と呼び、この体験流を振り返る意識過程を「反省(reflexion)」とする[Schütz, 1932: 43-45]。これにより「私」の体験は持続と反省という2つの軸で整理できる[ ibid.: 43]。つまり、反省により持続を「構成された体験」(時間−空間的に概念化される世界における生)として私自身の「まなざし」に捉えることで、その体験が「私」にとって持つ意味が構成される。この方法的構図によって中学生の高校進学の過程をみると、持続(彼らが疑問を持たずに受験勉強に没頭するとき)と反省(「なぜこんなことをやっているのか」と立ち止まって自分の受験勉強を振り返るとき)とに整理可能である。むろん、高校進学に対する彼らの考えは専ら反省により構成されることになる。そして反省に入るとき、彼らは、その「関心のあり方」に沿って、自分の進学の動機や進学をめぐる他者との交流、進学の制度的現実など、時空間を超えた様々な対象を「まなざし」に捉え解釈する。次に、この点を明確に捉えるための諸概念をみておこう。
まず、中学生が表現する進学の動機を整理する概念をみる。「私」が自分の行動を反省の「まなざし」に捉えるとき、それと動機的に関連すると判断される未来の状態を「目的動機」[ ibid.: 94-95]、その目的動機の構成そのものと関連したと考えられる過去の体験を「真の理由動機」[ ibid.: 100]と呼ぶ。中学生が構成する進学動機はこの2つの概念から整理される。次に、高校進学をめぐり中学生が思い起こした他者体験を整理する概念をみる。「私」の他者理解は他者の「身体の動き」を「経験の蓄え」から理解する「客観的意味理解」と、他者がその動作に付与する「意味」を「経験の蓄え」から理解する「主観的意味理解」とに整理される[ ibid.: 149-153]5。他者の主観的意味理解では、他者がその「経験の蓄え」によって意味づけたものを、私が自分の「経験の蓄え」から理解することになるため、両者の「経験の蓄え」の異同が問題となる。
最後に、中学生が進学の制度的現実を認識する過程を整理する概念をみる。「私」の社 会的世界の認識は、知覚される領域「直接世界(soziale Umwelt)」、その周辺領域「共時世界(soziale Mitwelt)」、過去の領域「前世界(Vorwelt)」、未来の領域「後世界(Folgewelt)」と遠近法的に分節化された認識として整理できる[ ibid.: 181, 197, 236, 246]6。また、「私」の共時世界の他者理解は、他者のある時点における情報を一定不変なものと類型化することで構成された理念型に基づく他者理解として整理される。それらは、他者の身体的動作を理解するための「経過の理念型」、その主観的意味を理解するための「人格の理念型」[ ibid.: 211]である7。後者は、匿名性が低く内容充実性が高い「性格学的」理念型と、匿名性が高く内容充実性が低い「社会集合体」の理念型に細分される[ ibid.: 223, 225]。「私」が制度的現実を認識する様子は、これらの理念型から共時世界の他者の行動と意味を一義的に理解し〈多数の人々が同じ意味づけのもとに同じ行動をする現実が存在する〉と認識する過程と整理される。
以上の概念装置をもとに、中学生による〈あいまいな進学動機〉の構成、あるいは、彼らが進学の意味を解釈し構成する過程を考察することにしよう。
事例の考察に移る前に、事例対象となる中学生の社会状況を略記しておく。むろん彼らは、これから描く社会状況を十全に承知していない。だが、それは彼らの意味構成の地平的はたらきとして関与しており、彼らの関心や「経験の蓄え」に応じて等高線のように自らの社会的世界を構成していると考えることができる[Schutz, 1964]。ここでは事例の中学生が置かれている社会状況を、観察者の構成概念である「領域」と「内容」から整理する。「領域」は、中学生の認識の構造に合わせて、彼らの身体が日常的に位置する居住地域と、それ以外の複数の他地域(全国的な状況)に区分し、「内容」は、中学生の認識する内容(「就職のため」)に合わせて、就業動向を中心に概観する。→続きを読む(頒布案内)