多くの社会理論には、理論と事例・現象について暗黙の前提があるように思われる。この前提のことを〈社会理論への態度〉と呼んでみよう。たとえば、1970年代から80年代を中心に社会学理論の理論主題として注目された「ミクロ?マクロ問題」1に、そのある典型をみることができる。「問題」の現場では、いわゆる「ミクロ理論」と「マクロ理論」が互いを分離し、その上で相互を〈接合〉させようと大論争を起こしていた。ここでは〈事例〉が大きな役割を果たしている。それは相手の理論では説明できない根拠としての役割であり、それによってこの理論を退けることができるのである。わたしたちがここで注目したいのは、そこにある批判の構えである。
この構えに対して、ミクロ?マクロ・リンクに精力的に取り組んだ論者たちは、このミクロ?マクロの問題系を「認識論的、存在論的、政治的区分」といった「具体的二分法に結び付けようとする」ことを「誤り」とする。そうすることで両者に「激しい論争」が起こり、互いの理論が両立しない二者択一がせまられることになる[Alexander & Giesen, 1987=1998: 10-11]からだという。とはいえ、ミクロ?マクロ論争がさきのような(事例で理論を批判するという)批判の構えをとってきたとする印象を拭うのは難しくなかろうか。
さらにいえば、こうした批判の構えは、必ずしも二項対立関係にある相手、すなわち公然の外部からなされるだけではない。シンボリック相互行為論を例に挙げてみよう。言うまでもなく、それは「ミクロ社会学」ないし「意味の社会学」と分類されている。その上で、単にその外部からだけではなく、それと同じ陣営とみなされている他の分析方法からも批判されることがある[片桐,1998: 71]。外部からでも同じ陣営からでも、ターゲットを批判する構えは似通っている。シンボリック相互行為論が具体的に受けるのは、それが「ミクロ社会学であり、マクロな社会現象を説明できないという批判」[ibid.]である。
批判者たちは「マクロな社会現象を説明できない」という〈限界〉を突きつけることで、この社会学的視座の〈無用さ(uselessness)〉に飛躍し、そこから、この視座を退けようとする。つまり、事例・現象は互いの理論を批判するための武器として機能し、またそれが自明のことのように働いている。「ミクロ?マクロ問題」の〈社会理論への態度〉の典型をここに見ることができるのである。
こうした批判の構えに見られる事例と理論の関係は「実在するものの無限性の豊かさとそれに対する知識・理論の限定性という、カント以来おなじみの認識構図」[盛山,2000: 153-154]と重なる。ここからいいうるのは、あらゆる社会理論に付きまとう〈限界〉の必然性である。では、わたしたちはこの〈限界〉にどう立ち向かい、どのように克服すればよいのだろうか。
この〈限界〉は「克服すべきもの」として E. フッサール以来の課題となっているようだ[ibid.: 154]。もちろんそれは難しい課題であり、もしかしたら「人間はどうやっても『生きられた体験』をありのままに表現し得るはずがない」[ibid.]のかもしれない。だが、わたしたちはそこには帰着をしない。体験に対して、理論には限定性や限界性があったとしても、理論的な営為そのものへの諦めや放棄の姿勢を見せてよいことにはならないだろう。であれば、むしろその限定性の語り方に注目すべきではなかろうか。
そこでわたしたちは、A. L. ストラウスの諸理論を手がかりとする。かれの理論姿勢は、この限界性のありかた自体を考え直させる理由を与えてくれるからだ。そこにおいて理論と現実(事例)などの関係を再検討し、さきの論難の方法(または批判の構え)を越える〈理論への態度〉を探りたいと思う。
はじめに、ストラウスにとって「理論」とは何なのかを確認することにしよう。多作であったかれの仕事のなかでも「グラウンデッド・セオリー(grounded theory)」2と「社会的世界論(social world perspective)」は主要な提唱だといえる。まず、さきに術語化された前者からみていこう。
ストラウスが B. G. グレイザーとともに提唱したグラウンデッド・セオリーは、分析者が直面するであろう分析方法への苦悩[Glaser & Strauss, 1965=1988: 287]とともに語られてきた。のちに、かれらを受け継いだ J. コービンは、これを具体的に、「いかにすれば、自分の集めた分析材料や解釈が適切であり、信頼に値すると確認することができるだろうか」[Corbin, 1998: x]と述べる。これらの問いは、ストラウスらによって捉えられる社会学の課題だったのだろう。
かれらは理論と調査にはギャップがあることを問題視していた[Glaser & Strauss, 1967=1996: 1]。「ギャップ」とは、調査研究者たちが「〈理論〉というものは自分たちの調査とはほとんど何の関連もないと考えている」[ibid.: ii]ことをいう。この「何の関連もない」という表現は単なる無関係や門外漢を意味するのではない。「理論を吟味する」ときに理論と調査は共在している[ibid.: i]からである。しかし「何の関連もないと考えている」とみなされている。このことは、理論と調査の不可思議な関係、すなわち、調査における理論吟味が調査と理論の関係性が認識されないまま行なわれる可能性があることを示唆する。これが理論と調査におけるストラウスらの問題提起である。
ここで、かれらは「役に立つ(useful)理論を産み出す」[ibid.]ことを提唱する。それは、かれらが「理論」を調査によって生みだされるはずのものと考えているためにでてきた施策であり目標でもある。それでは一体「役に立つ」とはなにか。これは本稿において最も重要な問いの1つである。ただ、その詳細は第3章で改めて語るとして、まず「役立つ理論」への方法的姿勢を呈示しているグラウンデッド・セオリーの概要をみることにしよう.... →続きを読む(頒布案内)