現在、科学論は明らかに政治的な回路へと入りはじめている。それを、現代の科学論が〈政策論的な転回〉を基軸のひとつにしなければならなくなっていると置換することもできる。むろん、ここでいう〈科学政策論〉とは、「科学技術の発展のための政策」を論じる狭義のそれではない。それは、「科学技術と社会との接点において発生している課題をいかにして公共の手によって解決し、コントロールしていくか」という「科学と公共性」[藤垣,2002: 149]とに関わるより大きな問題系に対応している。こうした科学論の転回に位置する論者のひとりにS.フラー[Fuller, 1997=2000]がいる。かれの「社会的認識論(social epistemology)」は、私たちが通常抱く高度な専門家としての科学者像を「市民としての科学者」か、それとも「科学者としての市民」[ibid.: 13]かという決定的な岐路に立たせることになる1。そこで突きつけられているのは、「誰に科学を語る資格があるかという問い」[小林,2002: 118]である。この問いは、私たちが通常抱く科学像を根柢から揺さぶり、問い直す。
周知のように、現代社会は「社会化された科学を抱える社会」[村上,2000:34]である。むろん、「社会化された科学」とは、そうではなかった時代性との対比の内で語られている。村上陽一郎によれば、19 世紀に誕生する科学とは「自己閉鎖性・自己充足性」[ibid.: 15]を制度的特徴とする。略言すれば、当時の科学者集団には「クライアント」は存在しない。それゆえ、科学的な「知識の生産、蓄積、流通、消費、評価が、すべて科学者共同体、専門家集団の内部で行われている」[ ibid.: 16]。ところが、第二次世界大戦を相前後して科学の制度的側面は大きく変容する。この時期に、国家と資本が科学(技術)の「クライアント」として定着する。その帰結が科学の軍事化と商業化である。つまり、国家と資本との利害関心に呼応して大規模に分業化され組織化された科学こそが、「社会化された科学」の具体的な姿である。
こうした科学の歴史的=社会的な変遷過程を前提にするとき、科学者を「観察者の私心のない態度」[Schutz, 1962: 37=1983: 90]と叙述するシュッツ科学論は、あまりにも牧歌的にみえるかもしれない。だが、それは誤解や誤謬に基づいた判断であるといわなければならないだろう。私たちは、シュッツ科学論が意識の志向性分析の成果であること、くわえて、それが科学主義への鋭い批判を基柢的な相から一貫して内包していることを重視したい2。そこで、本稿では「社会化された科学」という問題系との対応を視野に入れつつ、シュッツ科学論が被ってきた誤解と批判に応え、そこに新たに「科学的活動」論というシュッツ自身が措定はしたものの未展開のままとなっている研究領域を明確に再定立し、シュッツ科学論を二重性のうちに捉える可能性を呈示したいとおもう。
シュッツ科学論への批判は総じて、シュッツによる「科学的態度」論を前景化することによって成立している。その典型はM.リンチによるシュッツ科学論への批判[Lynch, 1988]であるが、それへの反批判もすでに周到かつ十全に為されている[矢田部,1998; 浜,1999]。よって、ここでは、わが国の中心的なエスノメソドロジストのひとりである山田富秋による実践論的なシュッツ解読を吟味し、そこからシュッツ科学論の可能性の中心をどこにみるべきかを明示したい。ちなみに、かれはガーフィンケル=リンチによるエスノメソドロジー理解に異を唱え、「エスノメソドロジーにとってシュッツから継承したもっとも重要な概念は、「身体を媒介にした実践的で対話的なコミュニケーション」である」[山田,2000: 65]と、その実践論的な理論志向を一貫して示している。
山田のシュッツ解読を簡潔に、シュッツ科学論の〈変型〉と呼ぶことができる。リンチと異なり、かれは概念としての「科学的活動(scientific activity)」と「科学的態度(scientific attitude)」[Schutz, 1962: 36-37=1983: 89-90]とを混同する愚を犯さない[浜,1999: 135]。とはいえ、山田の解読も十全なシュッツ解読とはいいえないだろう。というのも、かれもまたシュッツの科学的態度論をただ前景化させていることに変わりはないからである。だが、あえて附言すれば、こうした事態そのものは、シュッツ自身にその責の一端を負わすべきなのかもしれない。というのも、シュッツは「科学的態度」に関してはくりかえし論述するものの、「科学的活動」に関する主題的な論究となると途端に寡黙になってしまうからである。ともあれ 山田は、シュッツの「科学的方法論の中に、とりわけ特に「適合性の公準」に新しい意味を見つけること」[山田,2000: 40]を目指す。その方向性には、すぐれた理論的直観力をみることができる。だが、それは意識の志向性分析というシュッツ科学論の中軸的な方法的意識を完全に等閑に附した、いわば〈改読〉とさえ呼びうるものである。
山田は、「「個性原理」の記述という非「対話」的」な「現在のガーフィンケル自身の立場」[ibid.: 12]を批判し、シュッツ理論の実践論的な再定式化を試みる。かれによれば、「現在の英米のエスノメソドロジストたちは不当にもシュッツを超越論的現象学者として位置づける傾向にある」[ibid.: 11]。だが、むしろ「シュッツはエスノメソドロジーの記述主義的な態度を越えて、日常生活の道徳的、政治的場面まで踏み込んでいた」[ ibid.: 64]。山田はこの実践論的なシュッツ像への転換を図るために、シュッツが1945年に著した「多元的リアリティについて」[Schutz, 1962. 以降、リアリティ論と略記]を科学論として限定的に読み替え3、そこに、その前年に公刊された「よそもの」論[Schutz, 1964]から抽出した「受動的理解(passive understanding)」と「能動的習得(active mastering)」[ibid.: 100=143]とに依拠した改変を加える[山田,2000: 49-55]。
このように、山田は《シュッツに依拠して、シュッツを批判する》という論述戦略を採る。その前提には、リアリティ論が「超越論的現象学の残滓を引きずったきわめて独我論的な立場から論じられている」[ibid.: 42]とする判断がある。この論点を敷衍すれば、リアリティ論におけるシュッツの理論的な構えでは、「超越論的自我を放棄して間主観的な世界の分析を行うという」(シュッツ自身が下した)「英断が不徹底なまま中途で挫折している」[ibid.: 47-48]ことになる。いい換えれば、「シュッツは一方では間主観的な日常世界がコミュニケーション可能な唯一の世界であるとしながら、他方では日常世界のレリヴァンスをいっさい絶った、独我論的な科学的世界の存在を支持するという折衷的な立場を表明している」[ibid.: 47]とされる。しかし山田は、「シュッツが実際の科学的活動を考えるとき、理論化を遂行する孤我をレリヴァンス・システムでもって代えたこと」[ibid.: 54-55]を決定的に重視し、〈レリヴァンス・システムとしての科学知〉という科学像からシュッツの「科学的態度を解釈し直せば、それは科学者集団が歴史的に共同で形成してきた、拘束力をもった類型化の規則や手続きとして理解されることになる。それはクーンの「科学者共同体」に近い考えかたになるだろう」[ibid.: 55]と結論づける。→続きを読む(頒布案内)