宗教体験をいかに捉えるかは、宗教研究にとって根幹的な問題である。神秘的な体験や霊的世界との接触にまつわる出来事が、宗教の成立や信仰の維持に大きな影響を与えることは周知の事実である。これらをどのように記述し、どのように解釈するかは、非常に繊細な問題を孕んでいる。従来、宗教体験の研究は、回心論を中心として広義の宗教心理学が担当してきた。W. ジェイムズの信仰告白書や自叙伝を対象にした研究などはその古典的成果といえる。一方、日本における宗教体験に関する研究は、主に宗教人類学の立場からなされたシャーマニズム研究と主に宗教社会学の立場からなされた新宗教研究の2つの流れが牽引してきたように思われる1。本稿は、新宗教研究の流れにおいて提出された「内在的理解」というアプローチを検討する2。その際、宗教現象学や解釈学等といった特定の理論的立場から出発するのではなく3、方法を吟味する視点から、具体的な経験研究──島薗進の「中山みき研究」──を検討する作業を通して、その手法を剔出していく。この作業を踏まえ、方法論上の限界と可能性を明らかにすることが本稿の企図である。
上述した「内在的理解」とは、1970年代後半に「宗教社会学研究会(以下、宗社研と略記)」(1975-1990)によって提出されたテクニカルタームである。このタームは、それまでの宗教研究──É. デュルケムの理論的影響から出発した伝統的な社会集団における祭祀組織の構造と紐帯機能を分析する研究、M. ヴェーバーのテーゼを背景に置く近代的思惟様式を用意した文化伝統を確定する研究、T. パーソンズの理論を適用して社会の機能分化と世俗化を分析する研究等──を「外在的」で「社会還元主義的」だと批判する構図で提出されている4。
ただし、この内在的理解というタームは、これまで明確に定義されたことがなく、曖昧で多義的な内容として捉えられてきた経緯がある。本稿は、内在的理解というアプローチを、宗教者の主観によりそって理解しようとする立場であり、その立場に基づいて当事者側の論理を発見しようとする方法、と捉えて議論の足場としたい。このように内在的理解を立場と方法にわけて捉えた場合、宗社研の研究者の間では、立場(あるいは姿勢、方向性)の共有はなされていたが、方法論(あるいは研究視点、解釈の道具立て)のレベルでは十分な共通理解は得られていなかったといえる5。また、宗社研の解散後、会の一員であった島薗や島田裕巳等、幾人かの研究者が検討を加えているが、そこにおいても、議論の主眼は立場の問題に置かれていたように思われる6。例えば、文献研究と調査研究、あるいは、教祖、教義、教団、信者等、研究のやり方や対象によって当然、採られる方法は異なっているが、立場の文脈においては(実際に採られた方法の問題は)混同して議論が進められている。内在的理解を、ただ単に教祖や信者の立場に立つことによって達成できてしまうと考えると、研究者の様々な恣意が入り込んだ説得性のない研究に陥ってしまう危険性があるだろう7。宗教体験を支える文化的背景や社会的背景の分析に留まらないアプローチが可能であるためには、どのような方法が採用される必要があるのか、具体的には、どのような研究視点、解釈の道具立てが要請されるのか。この問題を本稿では、考察の対象を教祖研究という特定の研究領域に限定し、そこで内在的理解を達成した代表的成果として評価されている島薗進の「中山みき研究」を取り上げて検討を加えたい。では以下に、内在的理解の方法を具体的な作品から剔出する作業に取りかかりたい。
島薗の内在的理解の代表的作品とされているのは、天理教の教祖である中山みきを扱った「神がかりから救けまで」「疑いと信仰の間」という2つの論文である8。この2編は、連続した内容の前半部と後半部をなしており、研究の目的も方法も一貫している。その意味では、この2編を同一のテクストとして扱うことが可能である。
この2編の研究の目的は、極めて独自の宗教思想である天理教が、いつどこで生み出されたか、また、同時代の宗教観念や精神構造の水準を超えたのは如何なる理由によっていたのか、これを明らかにすることにある。そしてこの2作品の主旨は、それまでの教団の公式的教義(中山正善の影響が強い)と、先行する研究者が依って立っていた「突発説(中山みきの神懸かりを天理教発生の決定的出発点と捉える立場・説明)」を批判し、みきが神懸かりの際に発した言葉、並びにその後の彼女の行動を人間一般の諸行動の延長線上に理解し、天理教の発生を非突発的に捉え返すことにある。この立場から島薗は、「みきの信仰は突然の悟りや超自然力の介入によってもたらされたのではなく、徹底した孤独な問いかけ(神懸かり以後、十数年に渡って教えが説かれていないばかりか、数度彼女は自殺を試み、また内ぐらに籠もるという特異な行動を採っている: 筆者註)と生活のゆっくりした歩み(最初の救け──おびや許し──を行うのは神懸かり後15年以上を経てからであり、また、その10年後になって信徒集団らしきものが形成されている: 筆者註)によって徐々に形成されたものであり、そのことが疑いや絶望に絶えうる(天理教という思想の:筆者註)強靱さと奥深さをつくりあげた」と結論づけている。
筆者の観点では、この論文、特に前半部において重要な論点となっているのが、1. 神懸かり以前のみきを取り巻く状況の捉え方、2. 神懸かりの際に発せられた言葉の(内面的)意図の理解、3. それに対する周囲の人々──特に寄加持を行った際、みきに降りた神を同定しえなかった山伏市兵衛と「神のやしろにみきを貰い受けたい」という欲求を受け入れた夫善兵衛──の反応の解釈である。
まず、1点目の状況把握から検討していきたい。島薗の研究において非常に大きな特色となっているのが、歴史学的な意味における客観的な状況把握の作業に力点を置かないことである。つまり、具体的には北大和地域における産業構造、景気の動向把握、民間信仰や「ええじゃないか」の経路等、産業・経済や文化・風俗的状況の把握にほとんど労力が割かれないことである。これは、高木宏夫、村上重良等の先行研究においては、非常に重視されていたポイントであり9、換言すれば、これらの諸条件の把握によって、かなりの程度、みきと彼女を取り巻く人々の状況と心理が推測可能になると方法論的に設定された研究視点である。これは、人間行動の被規定性の把握に対して「生産」の側面をさほど重視しない、あるいは、歴史的主体の生の把握において地域レベルの産業・経済的、文化・風俗的土台の把握に重きを置かない、つまり、マルクス主義的な研究法、あるいは広義の機能主義的な人間理解に距離を置いていることを意味している.... →続きを読む(頒布案内)