本稿の課題は、経験的研究における1つの有用な視点、方法論として、ナラティヴ・アプローチ(narrative approach)について検討することである。特にここでは、(スピリチュアリティを含む広義の)宗教現象を考察の対象として取り上げるが、だからといって、その射程は宗教研究にとどまるものではない。より広く、個人と集団の「経験」(experience)を問うという視点から、社会学における経験的研究にナラティヴ・アプローチを適用する可能性を論じていくことを目的とする。
特に1990年代以降、質的研究(qualitative research)に関する欧米圏の社会学関係の著作が次々と翻訳されており、また並行して、日本の研究者による著作も数多く出版されている1。こうした流れの背景には様々な要因が考えられるが、おそらく何か1つの決定的な事態が社会学に起こった、ということではない。だが、近年の社会構築主義(social constructionism、以下「構築主義」)の隆盛に伴い、研究者の目があらためて質的研究に対して向けられた、という側面は指摘しておいてよい。
構築主義は、J. キツセと M. スペクターの『社会問題の構築』[Kitsuse & Spector, 1977=1990]の翻訳を契機とする「社会問題の構築主義」に関する研究書や、家族療法に関する研究書の出版[White & Epston, 1990=1992; 野口,1996]を経て、徐々にわが国の社会学界に浸透していった[cf. 中河,1999]。この構築主義の核心を一言で言い表すのは容易ではない。ただ、言語(およびその使用)を媒介として営まれる相互行為(とその過程)によって、社会的現実や意味が構築されると考える点は共有されていると言うことができる[cf. Burr, 1995=1997]。
構築主義の隆盛によって、現在、言語(およびその使用)と相互行為への着目があらためて高まっており、そこには(もともと構築主義が志向していた)社会学上の方法論の再検討を促す機運もはたらいている。より具体的には、人々の意味構築的な語りを、いかに記述し、分析していくのか、という点がクローズアップされた。だからこそ、多くの質的研究のための方法論の再検討が行われてきているのだ。
ナラティヴ・アプローチは以上のような学史的動向の下に位置づけることができ、上記の問題意識に応え、経験的研究における1つの有用な視点、方法論を提供するものである、とわれわれは考える2。
そもそも物語(narrative)とは、始点、中間点、終点を持ち、それが1つの筋によって貫かれている言葉の集合体のことである[Barthes, 1961-71=1979; Ricoeur, 1983-85=1987-90]。具体的には、
本稿は、こうした物語論の中でもとりわけその行為的側面(物語行為、および読書行為)へと着目し、その経験的場における適用を志向するがゆえに、「ナラティヴ・アプローチ」の語を用いている。相互行為の中で、物語を語る、および物語を読解する、という行為によって意味(現実)が(再)構成される、という側面をとりわけ重視したいと考える4。
前節で、質的調査の重要性が再検討されつつある動向を概観したが、では、なぜナラティヴへの着目が必要なのか。以下にその主な理由を示す。
まず第1に、われわれは、物語るという行為、すなわち物語行為によって、物事の意味を理解することができる、という点である。逆に言えば、物語られない物事は、「私」および集団にとって意味を持たないとさえいえる(野口裕二はこれを「現実組織化作用」と呼ぶ[野口,2002: 44])。詳しくはすぐあとに述べるように、「私」および「私たち」にとって意味をもつあらゆる「経験」は、物語行為をもってして構成されうると言える。だからこそ、経験に照準するわれわれにとって、ナラティヴに対する着目が重要となる。
第2に、観察者が、第三者たる調査対象者が抱く現実や経験を知ろうとする場合、それは、インフォーマントのナラティヴを通して知ることができる、という点である。第三者の経験を知るためには、何らかの形で観察者は、インフォーマントのナラティヴに耳を傾け、理解しようとするのである。
第3に、物語を分析するということは、インフォーマントがおかれているより広範な文脈を理解することになる、という点である。「私」や「私たち」の語る物語は、決して真空状態から生まれてくるものではない。それは、常に既存の物語のもつ形式を模倣することによって成り立っている(野口はこれを「現実制約作用」と呼ぶ[ibid.])。つまりナラティヴは、より広範な社会的文脈に常に影響を受けている。だから、個人および集団のナラティヴを分析することは、彼・彼女らを取り巻く広範な文脈(文化、慣習、宗教など)を理解しようとすることにもなるのだ。
本章では、とりわけ「私」の経験の分析に焦点を当てる。まずは、経験とはなにかを考えることからはじめよう。
本稿では「体験」ではなく、「経験」を分析の対象とする。まずは、体験と経験とにはどのような差異があるかを述べなくてはなるまい。
宗教経験の分析にナラティヴ・アプローチを適用することを主張している D. ヤマネは、V. ターナー(および W. デュルタイ)の議論を踏まえながら、経験を experiencing と experience に峻別する。前者は、個人の視点からの不断の時間的流れであるために、直接的な研究対象とはなりえないのに対し、後者は、「間主観的に分節されるもの」であるがゆえに、研究の対象となりうるという[Yamane, 2000: 174]。本稿では、前者を「体験」、後者を「経験」と呼ぶこととする。インフォーマントが、過去のある時点で体験した出来事を、リアルタイムに知ることは第三者たるわれわれには原理的にできない。たとえそれが、インタビューといういまここで起こっていることであったとしても、観察者が聞き取れるのは、常に事後的に語られる何かであるほかはない。そして、その「何か」とは、経験であり物語である.... →続きを読む(頒布案内)