ポストモダン的な情況の際立った内実は「意味」の危機にある。この危機の様相は端的にいえば「物事が思っていたのと違う」1
[Lemert, 1997: 59]という感じである。
もちろん、このような感じはポストモダニズムだけのものではない。しかし、その感じが「物事がそうであるはずのあり方」2を説明しうる「大きな枠組み」(grand
scheme)の不在という内実を持つのはポストモダン的情況に固有なものといえる[Lemert, 1997: 60]。イーグルスの歌「ホテル・カリフォニア」に登場する支配人が69年以後のワインは飲めたものではないと客に告げるのも、グールドナがそれまで社会学をリードしてきた機能主義がその主導権を喪失していく状態を社会学に到来する危機の兆しと読んでいるのも[Gouldner,
1971]、時代の変化とその変化に応じていくべき担い手とのずれに対する懸念を表すことにほかならない3。
レマートはポストモダン的倫理と近代の倫理とを区別するもっとも著しい差として近代的倫理の合理性をあげる。慣習にしがみつきそれを保持しようとする伝統的な倫理に対して、近代的な倫理の特徴は「未来志向的かつ合理的な態度」にある。一方、ポストモダン的な倫理の直面する情況は、近代的な倫理が求める「合理的な選択肢」がないということではなく、むしろその数が「膨大に増加していてそのうえその多くが互いに相容れない」がゆえに合理的な選択の算出が難しくなっているということである[Lemert,
1997: 602 ]。選択肢の不在ではなく、どの選択肢をいかに採るかを決定する原理の不在、問題はそこにあるわけである。
この文脈でレマートがポストモダン社会とメディアとの関係に触れ、ようするにメディアとりわけテレビに写し出されるリアリティとその外のリアリティとの境界が極めてうすいといい、今日の「リアリティの社会的構成をめぐる騒ぎ」の所在を「哲学者のいう意味でのリアリティ」ではなく「不安を抱えつつ可能になっているポストモダン的生の社会心理学」(the
social psychology of a disturbingly possible postmodern life)に求めることは注目に値する[Lemert,
1997: 61]。というのも、それはポストモダン的な情況に応え、「単なる権威の道具」ではなく、「差異に対するわれわれの感受性を洗練させ翻訳不可能性に対して耐えられる能力を高める」ための知を求めるうえで目を向けるべき場所を指し示すからである[Lyotard,
1984: xxv]。
問題の鍵は「構成」という言葉であり、それはポストモダン的情況とその情況を危機として感じて応えていこうとするポストモダニズムを貫くものである。まずそれは「言葉や意味の社会的な諸土台」を開示し、既存の「大きな枠組み」あるいは「大きな物語」(grand
narrative)[Lyotard, 1984]からその形而上学的な特権の内実を暴露する。いうまでもなく、この暴露は構成という言葉のもつ想像力の具体化である。だが、これは話の半分にすぎない。
リアリティの社会的構成に対する関心は、「大きな枠組み」あるいは「大きな物語」が「物事のそうであるべきあり方」を説明する能力を失い、まさしくそのいみで、物事の「意味」を開示する力を失った情況にあって、それに応えていこうとする姿勢の表れである。しかし、それはまた「大きな枠組み」や「大きな物語」自身の構成的歴史を見極めることで、それらによっては、もはや語られず、それゆえ沈黙する「意味」に新たな声を与えようとする挑戦をも含意する。そこにこそ「リアリティの社会的構成をめぐる騒ぎ」の深さがある。
チョンによれば、現象学は「ポストモダン的(of postmodernity)ではなく、ポストモダニズムの直中にある(in postmodernity)」[Jung,
1997: 558]。チョンはフッサールから始まった、「運動」としての現象学がつねに「永久の初心者」(a perpetual beginner)たらんとし、とりわけ「いかなる知に関してもその出来を忘れまい」とするところに現象学とポストモダニズムとの通底性を求めて、現象学運動に参加する哲学者としてフッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティとともにシュッツの名をあげる。
この文脈においてシュッツの社会理論は示唆に富む。というのも、現象学の見地から社会学を考え現象学的社会学の可能性を打ち出したシュッツは、読み手を現象学とポストモダニズムに通底する感受性、さらにはその感受性に基づく社会理論の展開可能性へと導くからである。
本稿では、現象学とポストモダニズムとに通底する動機を引き受けつつ社会理論を展開する可能性を探るという大きな課題に接近する一ステップとして、シュッツにおける「構成」の概念の理論的含意を考えてみたい。
社会学の祖の一人デュルケームにとって「科学のみが事実との直接的接触を可能にする」[Durkheim, 1938: 143]。このような科学における知の獲得において「前科学的観念」は「われわれとモノとの間にかけられたヴェール(veil)」であり、「透明であると思えば思うほどそのモノを隠してしまう」ものにほかならない[Durkheim, 1938: 14]。科学と常識とを峻別し、科学を常識の呪縛から切り離すこと、これが社会学の近代的成立とりわけその「科学的」成立の条件にほかならない。 もし、ポストモダニズムの流儀をハイデガーに従って「伝統的な概念をそれが由来する起源において脱構築する批判的プロセス」に求めるならば[Heidegger, 1971: 23]、社会学を脱構築し、その近代性を呈示する読み方は次のような文章によって例示される。
厳密にいって純粋で端的な事実のようなものはない。すべての事実は最初から、マインドの諸活動によって全体の文脈から選択された事実である。したがって、それらはつねに解釈された事実なのである。[CPI: 5]
フッサールは『超越論的現象学とヨーロッパ諸学問の危機』において、近代的な科学理性がその客観性や厳密性の追求の中で「自然の数学化」をもたらし、結果的には世界を「理念の衣」に置き換えてしまっていると指摘している。この文脈でシュッツはフッサールと同じ立場をとる。が、シュッツは単に科学が常識を凌駕し〈裸の事実〉に接する特権があるという近代的な認識論を否定することに留まらない。
シュッツによれば、「世界に関するわれわれのあらゆる知は、常識においてまた科学的な思惟において、それぞれの思惟の組織に特異な抽象、一般化、公式化、理念化などの構成的所産(constructs)を含む」[CPI:
5]。このスタンスに立てば「構成的所産」という意味においてはそれが科学によるものであろうが、常識のものであろうが同等であるということになるのだ。それゆえ、社会的世界と社会科学の関係には特異な問題が内在する。
もし……すべての科学的構成物が常識的な思惟の構成物を凌駕するように設計されるなら、自然科学と社会科学との主な差は明らかである。自然的世界(the universe of nature)のどのような部分が、その中のどのような出来事や事実が、さらにはその出来事や事実のいかなる側面が主題的あるいは解釈的に己の特定の[学問的]目的に適切かを決定するのは自然科学者である。……レリヴァンスは自然そのものには内在しない。それは自然の中に、あるいは自然を観察する人間の選択的または解釈的活動の帰結である……しかし、社会科学者の直面する事実、データそして出来事はまったく異なる構造をもつ。彼の観察領域である社会的世界はまったく構造を欠いているわけではない。それはその中で行動し、思惟し、生きる人々にとって特定の意味やレリヴァンスの構造を有する。彼等はこの世界を、日常世界のリアリティに関する一連の常識的構成物によって[科学者に]先んじて選択し、先んじて解釈している。[CPI: 5-6]
すでに述べたように、フッサールやシュッツにおいて科学が裸の事実を直截に獲得する特権は否定される。くわえて、ここでいわれているように社会的世界を科学者に先んじて選択し、解釈している常識的な行為者が存在するならば常識的世界構成と科学的世界構成とはどのような関係にあるのか。構成という点からして両者が同等で科学と常識のいずれも裸の事実にアクセスすることができないとすれば、それゆえ両者を結び付ける客観的な手立てがなければ、そこには世界に関する多元的な解釈の可能性が開らかれる一方でその代償として相対主義の落とし穴が待ち受けているのではないか。そして、その相対主義は結局のところ科学的世界構成と常識的世界構成との間の翻訳を阻むことになるのではないか。
この問いに対するシュッツの答えは否である。われわれが飛び込む諸々の世界やリアリティはたとえば他所の国では使えないコインのように、いいかえれば価値があるかどうかの問題ではなく両替そのものができないようなコイン同士(むろん、これはそのようなコインがあればの話だが)のように互いに対して断絶しているわけではない。それらの世界やリアリティは「一つで同じ意識の様々な異なるテンションに当てられた名前にすぎない。それは同じ生、生まれて死ぬまで途切れることのない世界内的な生なのである(the
mundane life, unbroken from birth to death)……[だからこそ]それらは記憶され……自然言語によって私の同僚に伝えることができるのだ」[CPI:
258]。
問題になっているリアリティの多元性とそこに潜む相対主義の問題は、多元的なリアリティが世界内的生を通底的に共有し、その共有に基づいて互いに翻訳可能であるということで解消される。であれば、世界内的生を通底的に共有するということはどのようなことか。いいかえれば、そのような共有へと導くのは何か。さらにいえば、世界内的生を共有するということと諸々の世界構成とはどのような関係にあるのか。
この問題の鍵はすでに引用した文章、とりわけ「レリヴァンスは自然そのものには内在しない。それは自然の中にある、あるいは自然を観察する人間の選択的または解釈的活動の帰結である」という箇所にある。ここでシュッツがとりあげているのは、ようするに「人間であること」と「構成すること」との関係にほかならない。→続きを読む(頒布案内)