今日の思想状況を捉えようとするとき、20 世紀までの思想の大きな流れを再確認することが必要であるだろう。小論は、思想のこの大きな流れのなかに見出されるいくつかの転回のなかから、いわゆる「言語論的転回」に着目し、現在を「「言語論的転回」以降」と捉える観点から「人間にとって言語が問題になる」1ひとつの局面を提示する試みである。「言語(言葉)」という観点から、思想におけるさまざまな「現代哲学の対立軸」[野家,2003: 1-4]のひとつを見出すこと、具体的には「言語論的転回以降」における「意味(Bedeutung, refernce/meaning)」2という現象を問題にすることがここでの課題である。以下では、まず言語論的転回を思想の歴史の中で捉え直し(1章)、つぎに言語論的転回の特徴を提示する(2章)。そして最後に言語論的転回以降としての現在における言語と人間の関係を、言語現象そのものに即して考察する(3章)。
思想の歴史を大きな流れとしてみるとき、その流れの中にはいくつかの思考の枠組の変容を見ることができる。たとえば20世紀までの哲学の歴史には「4つの転回」があったと言われる[西脇,2002: 17, Pataut, 1996= 2003: 73-75]。それらは「存在論的転回」、「認識論的転回」、「言語論的転回」、「自然主義的転回」(あるいは「認知科学的転回」[戸田山,2003: 88])の4つである。いずれの「転回」も思惟するものと思惟されるもの、すなわち思惟の働きと思惟の対象領域との相関関係の変容である。それを認識論的な枠組で換言するならば、認識の「主観」と呼ばれるものとその「客観(あるいは対象)」としての世界および世界の内にある存在者との相関関係の変容である。それは同時に哲学の対象領域の変容でもあった。
第1の「存在論的転回」では、世界の内で生じる事柄をそれが「存在する」という構造から捉えようとする考え方が基本的な枠組として成立した。こうした世界内の存在者の捉え方は、アリストテレスに原形を見出すことができる。アリストテレスは、世界の内に在るもの、「しかして存在者としてある限りの存在者について考察すること」[Aristoteles, 1026a=1994: 278]3を第一哲学として提示した。そこでは世界の内に存在する事物や出来事を、「存在する」という構造から捉えようと思惟するもの自身、すなわち世界と相関関係にある「主観(あるいはその精神、意識、理性)」それ自体は、考察の対象として登場することはなかった。現実には世界の内の存在者である「主観」それ自体は、世界に対する「主観」としては、けっして主題的に考察されることはなかったのである。このように世界内の存在者が「存在する」という構造を主要な問題とする思考の枠組を存在論の構制と見なすことができる。
第2の「認識論的転回」では、世界を認識するものの側が主要な問題となった。こうした事態は、ロック、ヒュームの経験論以降、さらにはデカルト、カント以降の近代哲学に見出された。すなわち、そこでは「認識の対象としての世界」と「認識の主観」との相関関係の解明が主題となったのであり、認識の対象である「客観」としての世界と、その内に実際に存在している主観が主題となった。つまり、認識の対象との相関関係にある「主観」の側の認識過程が主題となったのであり、そのようにして認識の可能性の条件としての「主観」の認識能力に関心が寄せられたのである。こうして「主観—客観」という相関関係が設定され、そこから学問としての認識論の基本的な構制が成立したといえよう。
第3の「言語論的転回」では、世界の存在という事柄そのものについての思惟ではなく、そうした事柄についての言語的表現の適切さが問題となった。つまり「認識論的転回」において関心が寄せられていた世界を認識する「主観」の内的な思惟の働きや、それ自体としては言語表現から独立した直接に知ることの出来ない思考の多様な内容(知識、信念、思念、想起等々)そのものではなく、言語を媒介して外的に表現された文や命題を通してはじめて知ることができる思考内容としての思想に関心が寄せられたのである。そのようにして、現代の論理学、言語分析、(広義の)分析哲学の基本的な構制が成立したといえよう。
第4の「自然主義的転回」は、近代以降の物理学や化学、さらには現代のコンピューター・サイエンス、人工知能、脳科学、生命科学等々あらたな自然科学(認知科学)的な知見が急激に増大してきたことによりもたらされた。従来の近代哲学の認識論の枠組みや「言語論的転回」以降の言語分析の手法によってではなく、自然科学(認知科学)的な方法によって世界を観察し、記述し、説明することが徹底して可能であると考える立場が成立したのである。そこでは、数学的物理学的な方法による自然現象の記述や説明だけではなく、生命科学における生命現象の物理化学的な説明の可能性もまた考えられている。したがって、近代哲学の認識論における「主観」の在り方だけではなく、これまで理性や悟性、あるいは精神や意識という言い方で表現され、「人間に固有のもの」であると考えられてきた認識能力に関しても、理論的な可能性からすれば(したがって原理的には)多種多様な生命現象のひとつと見なされることになる。それは物理化学的な法則によって説明可能な対象となるであろう。人間の存在という事態も、このようにしてひとつの生命現象へと、さらに言えばひとつの自然現象へと吸収されることになる。こう?て近代哲学の認識論は自然現象に関する自然科学的な説明の図式に取り込まれるのであり、その各々の対象領域に関しても、従来の意味での哲学と自然科学の間に明確な境界は消滅することになる。端的に言えば、哲学が自然科学に吸収され、生命科学、脳科学、認知科学へと解消されるということであり、哲学の自然化をそれは意味している。
このように、思想における「転回」を捉えていくとき、注意しなければならないのは次のことである。以上の哲学の歴史における「4つの転回」は、けっして年代記的な哲学史の具体的な事実ではないし、それぞれの「転回」について特定の思想家の名前を挙げて指示することができる思想の枠組みではない、ということである。たしかに古代における「存在」についての思惟や近代における経験論や大陸合理論の「認識」というように、「存在」、「認識」、「言語」、「自然主義」という哲学の対象領域の「転回」は、その時間的な前後関係のうちで順番に生じた歴史的な出来事、すなわち思想史的な事実であると見ることも不可能ではない。しかし、それぞれの「転回」で問題となったその対象領域の内実に着目するならば、いずれの「転回」の対象領域も哲学の歴史の大きな流れの中で途絶えることなく探究されてきたものにほかならない。こうした主題領域は、そのつどあらたに問題とされたのであり、現在も問題になっている。さらに言えば現在では4つの転回の領域それぞれを、存在論、認識論、(論理学を含む)言語哲学、自然科学(認知科学)という学問分野の区分に対応させることもできる。
いま指摘したことは「言語」という主題を取り上げるさいに重要な意味をもつことになるだろう。
言語論的転回という言い方は、R.ローティーによって編集された哲学論文集『言語論的転回』[Rorty, 1967]の公刊を契機として有名になったものである。そしてそれ以降、現代の分析哲学にひとつの明確な特徴を与えた。しかしながら、そこでの「転回」の内実は、思考内容は言語を媒介して表現可能となり、また言語分析を通じて思考内容を思想として知ることができる、より厳密には、そうした思想を知るためには言語を媒介せざるをえないということであった。すなわち、思考するためには、まず言語の媒介が必要であるということであり、さらにはその思考内容としての思想を表現するためにも、そして最後には、そのようにして表現された思想を理解し、解釈し、そこから新たな思考を展開するためにも、言語を媒介せざるをえないという事態を指し示している。もちろん、こうした事柄に関して、単純に「言語それ自体が思考である」、あるいは「思考それ自体が言語である」というように両者が「媒介する(mediate)」という過程を無視して、思考と言語をただちに等値とすることにどれほどの学問的な妥当性があるかを簡単に判断することはできない。しかし、言語をまったく用いることなく思考するという事態を実際に想像することの原理的な困難さを容易に思い浮かべることができることからすれば、すくなくとも言語は思考の働きそのものにとっても決定的に重要な契機のひとつであろう。また言語とは、言語それ自体が世界の内に在り、相互主観的な事柄として現われていることを探究するための媒体(medium)でもある。→続きを読む(頒布案内)