社会科学基礎論研究会年報社会科学基礎論研究第4号
書評論文

シュッツ社会学の継承と展開

張江洋直
佐藤嘉一(2004)『物語のなかの社会とアイデンティティ』
書評対象書
佐藤嘉一(2004)『物語のなかの社会とアイデンティティ─あかずきんちゃんからドストエフスキーまで』
晃洋書房、vi + 195 + 14、B6 判、2600 円+税
キーワード:
自己論、わたくし語り、自我論、行為論、構造論、物語論、志向性の社会学、A.シュッツ、E.フッサール
書誌情報:
『年報社会科学基礎論研究』第4号(2005)、ハーベスト社、pp.198-203

はじめに

 「「わたくしという現象」を手がかりにして「自分のなかの社会」を捉えるアプローチ」[2]を前景化する本書は、著者の企図をほぼ実現している。それゆえ〈作者の企図〉を基準とするかぎり、この著作全体を《シュッツ社会学の継承と展開》と呼ぶことができる。著者がA . シュッツの主著である『社会的世界の意味構成』を「「自己のなかの社会」研究の最初のマニフェストである」[5]とする位置づけは、このアプローチの所在と特質を鮮明に呈示し秀逸である。以下では、このアプローチの徹底化という観点から論評を試みたい。それは、本稿を表題に掲げた《シュッツ社会学の継承と展開》という課題をさらにひろく協働的に推し進めるための作業の一環として位置づけたいからである。

1.意図された二層性─「物語」という隘路

 本稿が書評(論文)である以上、本来ならばここでまず本書の具体的な内容構成を呈示すべきかもしれない。だが、それは続く行論に委ね、当面は自らの課題遂行に必要な本書の基本構成を〈作者の企図〉との関係から捉えておきたい。
 本書の構成には〈二重に成立する意図された二層性〉がある。それを透明と半透明と表現したい。前者は〈作者の企図〉においてそうなのであり、後者は不透明ではないにせよ、やはり〈半透明な帰結〉を含意している。前者はその文体の志向に、後者はその例示あるいは理路の通路設定に端的に示されている。

本書の成り立ちは大学での教育実践……の講義に由来するが、同時に研究実践の一報告でもある。……学生諸君の率直な反応は……刺戟に富む「情報」源である。コミュニケーションの「ズレ」をなくして、これをフィードバックするには「教材の公開」が必要であろう。……本文ではできるだけ日常語を用い、平易であることを旨とし、脚注はかわりに専門的な立場から術語の定義、諸学説のコメント、新しい知見の展開を試みている。[1]

 読者は、こうした、かなり大きな落差に幾度となく直面することになる。こうした〈位相差の経験〉はある種の困惑を招来するが、これは著者の本意ではあるまい。しかも、「本文」と「注」とにみられる落差はたんに文体に還元されるものではない。いい換えれば、作者の透明な企図は読者の〈困惑〉を照射していない。おそらく、こうした場所において〈位相差を実現しようとする作者の企図〉が本書成立の鞍部に位置している。この点が半透明性を結果する。
 「「自己論」、「自己の状態のなかの社会」の理論。これが本書の全体を貫く「社会とアイデンティティ」問題への理論的視座である。物語の主人公(「自己」)が紡ぎ出す「わたくし語り」の意味構築としての「社会」の理論である」[i]。この主題を担う理論領野を著者は「自己論」と呼ぶ。蛇足になるが、本書の「自己論」は「序論」「終章」のルビで明白なように「Egologie」=「自我論」が通例の用語法であり、そこに抵触してまであえて「自己論」と表記する点に(相互)行為論の地平に定位せんとする著者の思想的境位がよく示されている。
 さて、「自己論」とは「「わたくしという現象」を手がかりにして「自分のなかの社会」を捉えるアプローチ」[2]である。この透明な企図は本書に一貫している。だが、ここで私たちはわずかだが、ある決定的な逡巡を覚えざるをえない。「物語のなかの社会とアイデンティティ」を語ることは、はたして「自己論」の呈示を十全に可能とする最良の途なのだろうか。ここで「自己論」とは、むろん著者が「「自己の状態のなかの社会」の理論」と措定する意味で用いている。そして、この疑念が生じる場所には、〈読者の位相差の経験〉を照射せずに「平易さ」を志向する本書の問題性が凝縮されているとおもえる。これを明確化するために、「「わたくし」の視点」[89]を詳述する記述を一瞥したい。「わたくし」を語ることと「『「わたくし」を語る』とは、どのようなことか」と問うことは区別した方がよい。……前者は存在の判断の問題であり、後者は事柄へ接近する「方法」の問題である。[92]この指摘は至極妥当なものだろう。だが、この命題は、同一頁において等価なものとして暗黙裡に次のように置換される。そこに差異はないのだろうか。「わたくし」が語ることと「『「わたくし」が語ること』の方法」とは、くどいようだが根本的に異なるものではないか。[ibid.]これら2つの記述に顕れる微細な事態に決定的な差異をみる必要がある。つまり、〈「わたくし」を語る〉という事態と〈「わたくし」が語る〉という事態に顕れる決定的な差異である。むろん、著者が適切に指示するように、両者の存立地平は、こうした事態について問うこと(方法論)とは明らかに準位を異にする。それゆえ、それらの準位(差異)に言及するかれの記述に問題性はない。むしろ私たちが凝視すべきは、著者が同一地平において等価とみる2つの微分的な事態にある決定的な差異である。この差異を如何にみるべきなのだろうか。
 G . H . ミードの「Me」と「I」を持ちだすまでもなく、前者において語られる「わたくし」は過去時制、後者は現在時制である。それゆえ、前者は後者の特異な場合といえる。このように、自我における時間的な〈(原)分裂〉が生起しうるがゆえに、そもそも準位を異にする方法論的な問いも可能なのである。そうであれば、この決定的な差異が、周到な「自己論」の理路を本義とする本書においてなぜ問題とされないのだろうか。じつは本書は、はじめから両者を等値とする〈特権的な場所〉において成立している。「自己論」の展開という課題がそのまま「物語のなかの「社会と自己」の問題」において遂行されるとする本書の根本的な理路設定が、この特権性を保証するといってもよいだろう。→続きを読む(頒布案内)

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浅野智彦
2001 『自己への物語論的接近』 勁草書房.
2004 「「私」はどこにいるのか」,社会科学基礎論研究会2004 年度第3回研究会 東京学芸大学 12 月18 日.
Berger, P. L. & B. Berger
1975 Sociology, second expanded ed., Basic Books Inc., New York. = 1979 安江孝司・鎌田彰仁・樋口祐子訳『バーガー社会学』 学習研究社.
Husserl, E.
1950 Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie, erstes buch, Nijhoff. = 1979 渡辺二郎訳『イデーン I-1』みすず書房.
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