〈コンダクト・ディスオーダ−の社会学〉試論

魁生由美子(瀬戸内短期大学)

はじめに

・「社会の心理主義化」、あるいはこころの時代としての現代

・ 個人の行為と心性を規定する道徳の現在形

・連帯の衰退・道徳の弛緩

・    アノミー放置の結末−ドン・キホーテか、唐獅子牡丹か

・    行為をめぐる道徳の再建可能性

  行為の諸問題を、「こころの問題」として読み解き、こころの処方箋を欲しがる人々がいる。その反動か、思考と感覚のディシプリンを身体的ディシプリンに直結した素朴な教育論が関心をひきつけているようである。
  本報告は、さまざまな理論枠組、ないしアプローチにより行為の問題を扱ってきた社会学の文脈で、行為の問題を「こころの問題」として位置付け、心理主義的な解決策を提言する諸言説を検討したのち、「道徳の問題としての行為の問題」に焦点を当てた論考の方向提示を試みるものである。

1.キャラクターなき時代

・    「美徳なき時代」

    キャラクターの不在/キャラクター・コンテスト

・       「今は『らしくない』人が巷にあふれている」

 どういうキャラクターをどれほどのテンションで呈示すればよいだろうか、現実の他者と如才なく折り合いをつけていくためには社会的状況のどの位置に立てば良いか、自己についての安定したイメージをもち、アイデンティティを確立したいのだが、そのためにはどうすればいいのだろうか等々・・・・・・。私たちの多くは、おそらく日々の行為の地平で困惑しつづけている。そして、そのような困惑の背後には、理想像として語られる「確固たる自己をもち、自律的に行為する健全な個人」とはうらはらな、分裂を生きる現代の私たちの実像があるように思われる。
 パーソナリティの原語をペルソナにたどっていく周知の議論を想起してもいいが、社会的状況において私たちが呈示する自己は、その時どきに応じて巧みに差し替えられることが前提とされている。なおかつ、パーソナリティのフレキシビリティは、より高度に、より精密な度合いを要請されているようにも思われる。

 「個々人の感情コントロール能力が低下しているように感じるのは、われわれに求められているコントロール能力のレベルが高度になったり、その高度な要求にわれわれが努力して応えようとしているからである」(森真一『自己コントロールの檻』p.74.)

なぜそこまで「コントロール能力」が重要視されるのか

・・・・・・コミュニケーションの受け手としての個の「ヴァルネラビリティの過剰」

「コントロールを極めようとする人々」      ex. 過剰な「道徳家」/「純愛」の人々

2.アカウンタビリティの危機

・        「僕たちは、わかりたいという欲求を強くもっている」か?

       「脱社会的存在」

「コミュニケーションの中で尊厳が維持できないのならば、『コミュニケーションによる達成自体を信じることをやめてしまおう』『コミュニケーションの中で尊厳を維持すること自体をやめて、自分の尊厳をコミュニケーションとは無関連なものにしてしまおう』といった極めて重大な戦略転換」

・・・・・・「我々が一般に持っている社会的な前提から離脱せよという呼びかけ」

酒鬼薔薇のメッセージ

・    アカウンタビリティ・ハザード

・    責任という虚無

3.「挙動不審」の医療化

コンダクト・ディスオーダーの発見、コンダクト・ディスオーダーの治療可能性

    人格障害という言説

・     名づけと科学  

・      医療化による思考停止

    動機・病名探索の無意味さ

 精神分析の手法を用いた社会的性格の分析で知られる小此木啓吾によると、パーソナリティには次のような機能があるという。
・         「『私』の連続性と不変性を保ち…いろいろな場面での自分につながりをつけ、それらを統合する」人格を統合する機能

 ・     「自分の欲望や感情を内面的にコントロールし、自律する」自己コントロールと並行して対人関係をコントロールする機能

・    自分の心の中に思い描く考えや空想が、どれだけ現実と一致しているか一致していないかを照合する心の働き」としての「現実検討」の機能

   ・     「社会生活での適応が可能になるような仕事なり役割を達成する」支配・達成の能力としての機能等々

「内輪の人や身近な人になってはじめて被害を受ける」種類の「困った人たち」(p.3) は、このパーソナリティに、「ミクロな狂い」があるケースであるという。

 社会的ひきこもりの研究で注目を集めている斎藤環は、「社会的な存在としての自分の位置づけについての安定したイメージを獲得し、他者との出会いによって過度に傷つけられない人」へと成熟していくことを「成熟のイメージ」として語っている。また、「成熟」には「外傷の体験と回復」のセットを可能にするのが「他者との出会い」である。(pp.114-115.)

・・・・・・以上のような指摘は、結局、問題の何を可視化するだろうか。

より鮮明な現実把握に、どのような理論枠組、ないしアプローチが考えうるだろうか。

むすびにかえて−行為の再呪術化への抵抗

・『「こころの専門家」はいらない』か?

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