(宮永國子編著『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』明石書店,2002年)
1.本論文の概要
はじめに
「ユタ」の儀礼は、沖縄で現在進んでいる社会変容を映し出す鏡。
ユタ…奄美から沖縄にかけての南西諸島に存在する宗教的職能者。
多くの場合、原因不明の心身不調を体験し、それがきっかけでユタとなる。彼女たち(女性が多いとされる)は、霊的能力をもつとされ、それを通して人々の日常的な相談事に携わり、運勢を判断し、祖先祭祀を指南し、病を癒すなど、その活動は多岐にわたる。[117]
その変容をとらえるために、以下の二つの視点が必要。
[1] グローバルな状況に、ユタがどのような儀礼によって対応しているのか
[2] グローバルな状況におけるユタのアイデンティティがいかなる形をとるのか
⇒グローバル化の進展の中、伝統文化とのつながりが断ち切られることで、人々はアイデンティティを喪失するが、同時に、伝統文化への訴求をとおして、現状に対応した新しいアイデンティティが探求される。=伝統の再帰性
⇒本稿では、ユタの儀礼の場を通した伝統の再帰性を検討する。
彼女[ユタ]たちは、自分をとりまく新しい状況に対応するため、伝統的な儀礼の場を通じて新たな自己の位置づけを行う。彼女たちはグローバル化の中で新たなアイデンティティを再構築するのである。[114]
*議論の背景
既存のユタ研究は、「ユタの個人史やその儀礼の記述と理解」に限定されてしまっており、政治、経済、軍事、歴史、文化が複雑に絡み合った沖縄の状況とユタの諸儀礼の関係といったよりマクロな視座からの議論はあまり見られなかった。
→しかし、今日のユタの諸儀礼(相談依頼者へ判示や拝みなど)には、個人の儀礼行為というレベルを超えた、より広い社会的・歴史的意味が複雑に絡み合っている。
1 沖縄のアイデンティティ探求の構図
近世から近・現代の沖縄は、中国、日本、米国、そして再び日本へという形で、その帰属先が変容したという歴史をもつ。「沖縄のアイデンティティの探求」とは、そうした変遷の中に…
a)「ウチナーンチュ」(沖縄人)としての一貫した核を見出すこと
b)その一貫性が「正統」なものであるという根拠を定めること
→正当性の根拠を求める動きが、新たなアイデンティティ構築となる。
*沖縄におけるグローバル化とアイデンティティ問題の構図
一地域が国民国家へと組み入れられることによって、その地域でアイデンティティの問題が浮上する。
→沖縄は、その生活環境自体がグローバルな世界の軍事秩序の下にあるということを肌で感じざるを得ない場。
←沖縄で、様々な社会運動(特に反戦・反基地、人権保護運動)がグローバルな志向性をもつ理由の、その背景。
2 沖縄社会におけるユタ
沖縄社会におけるユタの儀礼は、ローカルな行為。
ユタは、歴史上、為政者によってたびたび禁圧されてきたが現在に至っても、ユタ的世界は沖縄の精神文化の重要な位置を占めている。中でも重要なのが「シジタダシ」。
シジタダシ…理想的な父系血縁原理を貫徹すべく、父系の祖先の系譜をたどり直す儀礼。多くは、「ムンチュウ(門中)」と呼ばれる父系血族集団がこれを行う。
シジタダシの作業は、共同体が解体する近代化の一過程のなかでの、アイデンティティ再構築の営みとして理解できる。
小田によれば、シマ社会の中でヨコのつながりで保たれていたアイデンティティが、近代化によって危機に晒され、タテの男系系譜がヨコのつながりを意味づける共同体のアイデンティティの核として求められるようになったという。[118]
シシタダシによって、琉球王朝の系譜へとたどりつく
→先祖の“つなぎなおし”が、ユタの重要な役目。
この“つなぎなおし“は、民間の「祖先由来記」をもとにして行われており、国民国家への統合が進む中の明治期に入ってから流布。
→“つなぎなおし”を求める意識の高まりは、外の影響を受けずに、揺らぐことのない琉球・沖縄の文化的核を再創造しようという志向の現れ。
→この琉球・沖縄の正当性の探求という志向は、現在もなお続いている。
3 「グスク・うたき御嶽まつりの事例」
一人のユタ(上原実余子さん)を取り上げ、その人生史と儀礼が、どのように新たなアイデンティティ構築と関わっているかを述べる。
*上原さんの人生史に読み解くべき点
イ)開拓民の子として、サイパン(沖縄以外の地)で育ったという点
→ユタの多くは、自分自身の生息地の字にある御嶽を軸として、その宗教的世界観を立ち上げていくが、上原さんは沖縄本島を、生息地という意味づけとはやや違った視点で捉えざるを得ず、ゆえに、沖縄が置かれた政治的・歴史的事情にとても敏感になっていったと考えられる。
ロ)戦争で、家族の死を目の当たりにしているという点
→戦争で断ち切られた父との関係、および父に連なる系譜関係の儀礼的回復は、家族の“つながり“を再構築する行為にほかならない。
→上原さんカミゴトの道に進んだ当初、亡父が現れては次に拝むべき御嶽を教えてくれたという。
ハ)複数の信仰遍歴がある点
→上原さんは、「先祖崇拝を自分の信仰の基本にしている」と言いつつ、他の宗教の教えを決して悪くいうことはない。
ニ)日常的に基地を接している点
→基地のそばでの暮らしは、霊的感受性と相まって、軍事的脅威を意識することを強烈に促す。
上原さんをはじめユタの多くは、長期短期にわたる心身不調によって、生きる意味の喪失と不安や危機を体験する。=自己の存在基盤への問いへとつながる。
→ユタたちは、御嶽めぐりによりカミサマらとのつながりの安定を得ようとする。
→御嶽を拝むことにより、自分の神観念を琉球開闢神話の始祖たちの世界へと広げていく。
→結果、神話の世界を核としたアイデンティティが形成されていく。
*グスク・御嶽まつりの拝みの意味
祭りへの参加者は、90余名、その多くがユタあるいは「生まれの人」。
まつりの趣意書の中で、祖先崇拝を担ってきた霊的感受性をもつ自分たちのローカルな拝みが、神が見守る世の中、平和な世の中を実現する祈りであると意味づけされている。
祈りの内容は、環境破壊や核戦争への危機感、恨みや因縁の浄化、先祖崇拝、沖縄の拝みの慣習の弊害など、地球規模の内容とローカルな内容の両方に及んでいる。(司会の高嶺氏の祈りの内容もほぼ同様)
4 考察
*九州・沖縄サミット開催の位置づけ
高度な政治的判断の結果ではなく、霊的感受性を持った人たちが己の天命を果たしていく決意を新たにする機会として意味づけ。
*いのりの言葉が示すもの
1)時間、神観念の意味づけの多層性
時間について、中国・日本・西洋(主に米国)という三つの時間が併記。
→現在の沖縄の文化がおかれている位置を示していると考えられる。
神観念についても、「沖縄の神々」「日本の神々」「世界、宇宙の神々」と併記。
→神々を“つなぐ”場所として「琉球」が選ばれたのだという自負の現れ。
⇒伝統の「琉球王国」と、現代の「基地の島」という語り分けられてきた沖縄像を統合し、意味づけようとするという意味で重要な儀礼。
2)「生まれ人」たちが行った個々の拝みによって、沖縄が霊的意味だけでなく、政治的な意味をも含めて隅々まで祓い清められた、とされている点。
→拝みをめぐる自負の現れ。
*「生まれ人」の役割
=“結ぶ”“つなぐ”という言葉で表される拝みの実行。
神々や先祖を人間とつなぐ拝み、天と地と竜宮(地や海の底)をつなぐ拝み、グスクとグスクをつなぐ拝みなど、先にも述べたようにキーワードは“つなぎ”である。[128-129]
3)グスク・御嶽の歴史的な意味
かつて祭政一致の斎場であったグスク・御嶽は、先祖の血、汗、涙、怨念が刻まれたままいまだに叫び声あげている場。
→怨念、祖先の霊、悪業の連鎖(カルマ)など、いわゆる近代社会が無視あるいは否定してきた観念を、儀礼によって浄化、供養し、必要に応じては断ち切ることが求められている。
→儀礼によって悪しき伝統を断ち切り、誇るべき伝統を再帰的に掘り起こすという志向の現れ。
→こうして霊的感受性をもつ人々は、自身の現在を意味づけなおし、アイデンティティを再構築している。
2.若干の評
・グローバル化する世界情勢を、日常的に肌で感じてきた沖縄という土地の伝統が、その新たな潮流の諸要素をうまく取り込んでいった結果が、鮮やかに描き出されている。
結果、社会や文化といったよりマクロな視点から、ユタの儀礼、もしくはその宗教的世界観を描き出すという筆者のもくろみは成功していると言えよう。
3.若干の疑問
(1)ユタのアイデンティティ再構築に関して、(言うなれば)一般的な再構築(長期の心身の不調をきっかけに、など)と、グローバル化を受けての再構築をめぐる説明が混在している印象があり、多生混乱する記述になっているのではないか。→(2)との関連。「新らたな」という点をわかりにくくしている原因か(?)
(2)「彼女たちは、自分たちをとりまく新しい状況に対応するため、伝統的な儀礼の場を通じて新たな自己の位置づけを行う。彼女たちはグローバル化の中で新たなアイデンティティを再構築するのである。」[114]
「こうして霊的感受性をもつ人々は、自身の現在を意味づけなおし、アイデンティティを再構築しているのである。」[129]
→「新たな自己の位置づけ」「新たなアイデンティティを再構築」というが、どこが「新しい」のか、なにが「再構築」されたのかいまひとつ不明。
→それがグローバル化ゆえの変化なら、それ以外の社会変動時の変化と比較するとか、一人の人物で考えるなら、グローバルな視点を取り入れる前と後、といった比較が必要ではないか。本論文では、「現代に生きるユタたちは、グローバル化の影響を受けた自己構成を行った」とは言えても、「グローバル化によって自己を新たに再構成した」とは言えないのでは?
→生まれからすでに、沖縄人としてのアイデンティティが揺らいでいる彼女の事例は、その意味で余り適切ではないかも。むしろ、以前は、沖縄の伝統に帰らなければ、と言っていたユタが、最近になって、世界平和とかを言い出した、という方がわかりやすい(?)
→また、彼女たちが、グローバルな視点を取り込むことになった背景として、クライアントとの関係などを事例として用いてはどうか。(もはや沖縄の伝統の話ばかりしていても、話を聞いてくれなくなったから、とか)
(3)資料が大祭レベルでの趣意書という、かなりフォーマルな内容を扱ったものであるために、グローバル化を受けての伝統側の応答、沖縄独自の応答、という側面がよくわからない。
→換言するなら、新宗教教団の教祖、教師格の人々なら、言いそうなこと、という印象がある。(もちろん、それ自体、グローバル化の結果とは言えるだろうが。)
→グローバル化以前のユタが行った儀礼における彼女らの言葉や、他の新宗教教団の大祭レベルでの教祖の言葉などとの比較が必要なのでは。
(「シジタダシ」の話はその意味でわかりやすい。)
(4)なぜ、グローバル化に順接する形での伝統の再構成が行われているのか?
→反グロバーリズム、という応答だってあっていいはず。