妥当性の基準としての「客観性」概念の可能性──アドルノの「客観性の優位」の観点から──

片上平二郎(立教大学大学院)

(*:発表当日までに構成の変更や、トピックの抜き差しが大きくある可能性があります)

1.アドルノの「客観性の優位」という思想

いま、「客観性」なる概念を今取り上げる意味

・「相対主義」の問題
社会学における構築主義の隆盛と問題化
「哲学は、この物的性格を相対化ないしは流動化すれば…物象化された意識を抑えられると信じこんでいる」『否定弁証法』p.231)
そこでの「構成者」は何者なのか?
・「理論」と「実証」の分離?
このような状況をつなぐ思想の模索
・社会レベルにおける個人同士の分断、社会との分断
同時に逆説的な社会統合の徹底化、システム社会化
→「客観性」なるものが積極的に問われていないのではないか?という問題関心
  かたや「客観性」に対して無批判なままにそれを信奉する側と(物象化した「客観性」、
  他方で「客観性」にまつわる問題に対する批判(「客観性」の無関心)

「客観性」を問いにあげることの難しさ

→ここで徹底して「客観性」なるものを問うたアドルノを見てみる
*一般的にアドルノは「非同一性」の哲学者というキーワードで語られることが多いが、そのイメージと「客観性の優位」という主張の間にあるものはなにか。ここでは、この両者を架橋することも目指される。

2.約束‐アドルノの思想

「約束」を守らせることの哲学というキーワードから
哲学がその主張をもって人々に期待を抱かせながらも、現実社会においてそれが実現されていない場合(つまり哲学がその約束を現実には守っていない場合)、それは逆説的に人々を欺き社会に従属させるイデオロギーになってしまうのではないか。
・カントにおける構成的主観
・ヘーゲルにおけるダイナミックな弁証法的運動
・フッサールの主客二元論批判と、それを越えたものとしての超越論
→これらは本当に達成したといえるのか、という問いの叩きつけ
「主観と客観の分離は現実と虚構、その両方である」(「clitical models」p.247)
 現実にそのような分離の状態がある限り、それは真実であるとしか言うことができないが、一方でそれを単純に真実と見とめてしまえば両者の和解の可能性は消されてしまう。
社会的な強制の下で自由ではない主観に対して、「自由」な主観を=「自律的な」主観を優位におくことは、現実にある主観を存在しないものとして貶める。
対象から概念を抽象してつくったはずが、いつのまにか概念が物象化し、対象それ自体を概念から排除してしまうという傾向。そして、そのことによって成り立っている哲学
  =「伝統理論」
このような「伝統理論」に対しての「批判理論」
→メタクリティークたる「哲学」に対してさらなるメタクリティークを行う
  それによって生じる現実の社会と哲学の対峙
(アドルノにおけるメタとはより上位への抽象化ではなく、反転的な運動を指すのではないか? その「哲学」の反転により社会をそれにぶつける)
このような約束を守らせるということは、哲学という抽象的レベルに対してだけでなく、社会それ自体に対しても行われる。多様なものの共存を約束しながらも、その約束を履行しない社会への問いかけ
→そのようなものとしてのアドルノの哲学、社会学

ならば、さらにアドルノ自身にもその約束への問いかけをすべきなのではないか。

3.アドルノの「客観性の優位」

カントにおいて構成する側に置かれた主観もまた、社会というものに構成されたものではないのか。
→ここでは、主観は客観的なものになってしまっている。そして、この場合に構成する側に回っている社会は、構成の主体でありながらも、同時に固定化されたシステム的様相を呈する絶望的なまでに物象化した客観になってしまっているのではないか。
(ここで行なわれている構成はあくまで追構成にすぎない)
 固定されたもの=同一化されたものが、それぞれを規定しあった、完全に同一化されてしまった社会。同語反復的な個人と社会の関係(産業社会の文化という問題関心)
「主観的契機は客観的契機によっていわば「囲いこまれて」いて、限定的に負担させられたものでありながら、それ自体は客観的なのである」(『否定弁証法』p.211)
→アドルノによる自律的なる個人という仮象の批判
 過度に客体化された個人と社会。
(アドルノの後継者と言われるハーバーマスの「生活世界論」のこの点からの妥当性は?)
評論家花田清輝「物体主義」の中の「雲をつかむようなわたしの物体論」と相同的
「わたしが、つねに物体であり、絶対に物体であり、終止一貫、物体である原因は、むろん、わたしが、物体を支配していることにではなく、みずからを物体から区別している物体によって、わたし自身、わたしの支配する物体と同様、物体と支配されていることに求められるべきであり、むろん…」
「わたしの、家庭生活とはなにか。わたしという物体と、わたしという物体を分離した物体と、わたしという物体と結合した物体と、わたしという物体とを結合した物体の、さらに分離した物体との単なる運動や静止にすぎない」(『花田清輝評論集』p.64)
 →どこまでも物体の折り重なったものとしての社会(もう1つの唯物論の可能性)
ここで、アドルノは素朴な客体実在論を言っているわけではない。
(カント的不可知論の一方での受容と他方での批判)
客観が主観によって媒介されていることを否定はしない。
主観の中に客観はあるし、客観の中に主観もある。
→「社会学の主観と客観は入れ子状になっている」
 (間主観という考えをここからどう見るべきか?)
しかしながら、それでも客観は主観よりも優位に考えられるべきである。
媒介という概念にある不平等性のために、客観の中での主観の位置は、主観の中での客観と同等ではない。主観性の言葉の意味には客観であるということも加わっているが、客観性という言葉には、主観であるということが常に含まれているわけではない。
→主観の原史は描けるが(『啓蒙の弁証法』)、客観の原史は描けない。客観は個々でしか描けない。また、主観における近くは身体という客観物を媒介として行なわれているという事実(特に苦痛!)
主観の奥底の最も主観的であると思われる場においても客観は存在しており(フロイトなどもこの点から見ることができる)、その意味で個人の同一性は最も深い部分ですでに傷を負っている。

客観と非同一性

「同一性思想というものは…主観主義的である。…同一性は虚偽であると言えば、たちまち主観と客観のバランスは失われ、認識における機能概念の独裁も成り立たなくなる」(『否定弁証法』p.224)
「客観とは非同一的なものの肯定的表現であり、一種の用語法上の仮面である」(p.235)
←にもかかわらず、巨大な客観たる社会が強制機構として同一化の装置として存在していること。
このような客観性(=対象)の同一性とも非同一性ともつかない不可思議な性質を考えること

4.アドルノによるヴェーバー論

アドルノは上記のような視点から、ヴェーバーの理念型的方法論の再考を行う
ただし、アドルノのヴェーバー理解は現在の視点から見ると不備も多い。例えば、アドルノはヴェーバーの価値自由を価値中立性とほぼ同義にとらえ批判している。
→そこで本論ではその主張の方向がアドルノと対立的であると思われるシェルティングのヴェーバー方法論理解を一度経由し、その対比からアドルノのヴェーバー論の意味を再確認していきたい。

シェルティングはまず科学方法論の論理観を以下の2つの流れに分ける

・〈客観主義的〉論理観
認識対象の〈質〉に科学的認識の論理構造の根拠を求めようとする。自然科学的。
・〈直感主義的〉論理観
自然科学の法則科学的方法ではとらえられないというかたちで、精神科学や文化科学、歴史科学などの対象を自然科学とは区別して、それについて特殊な学問方法(直感)を提唱する
←これらはその違いを主張する一方で、方法の差を認識対象の〈質〉の違いに求めるという点で一致している。
→メンガー以降、認識客体の対立性のかわりに、同一の現実がその下で観察されることのできる観点の異種性(=価値)が現われる。<具体的なもの>の認識は問題にならない。

ヴェーバーはこのように生じた〈価値〉という観点というものを重視し、認識の論理構造の基礎を、認識主観のうちに植えかえた。このような点からヴェーバーの方法論は、シェルティングによると、〈主観主義〉的という上記2つとは違う道を歩んだことになる。
以上のシェルティングのヴェーバー理解は、価値自由をアドルノの見るように価値中立性と単純にとらえられるものではない。しかし、一方で、対象の持つ力に関しては顧慮されていない。

→そのため、価値という観点は、結局のところ、対象と切り離された抽象的な論理構造の上に乗っかったものであり、これは抽象的な交換過程の上で自由な価値と言われる資本主義経済の構造と相同的なものなのではないか、と指摘できる。
つまり、価値自由の「自由」とは、自由主義経済の「自由」のようなものでしかない?
→方法論という観点の中にすでに入りこんでいる、客観的な社会構造

このように、アドルノの構成する主観に対する疑問は、ヴェーバーの理念形の構成にまで疑問を呈示する。
(そもそも、〈価値〉というものへの着目自体が後期資本主義と関連しているともアドルノは言う)
→ヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』の中にあった「客観的整合型」という行為類型が、『社会学の根本概念』で消えてしまっているのは何故かという発表者自身の問題関心。

ここで、ヴェーバーの方法論を否定するのではなく、アドルノはヴェーバーの一見歴史(=客観的な社会の折り重なり)とは無関係に見える理念型構成の中に、入りこんでいる歴史的契機を取り出すことで、内在的な読み替えをしようとする。

・例として、支配の三類型の中にある、カリスマ的支配から伝統的支配への移行
    
理念型という、ある現象を包摂するためにモナド論的に考察された実体性を否定されたものが、それぞれ関係しあいながら移行していくというのは、当初の定義とは異なっているのではないか。
→ここに構成主観によってつくられた概念というものの中に内在する歴史の力が入り込んでいる。
(←ただし、ここで理念型の移行に驚いてみせるアドルノが、ヴェーバーの因果性への着目をどこまで理解していたかは、疑問として出しておいた方が良いかもしれない)
アドルノは、同一化するものとしての概念を否定しているように見えるかもしれないが、そこにおける観点は上記のように複雑である。
そもそも、分析対象となる客観的な当該社会自体がきわめて同一化されてしまったものであり、それに対する分析装置もまた同一性を媒介としなければ、それをとらえることができない。
逆説的にいえば、同一性を媒介として非同一性を照らし出す必要性が生じてくる。
(ヴェーバーの非合理的なものは、合理性に基づいて構成された理念型との偏差から考察されなければならないという考え方と類比的に見れるだろう)
ここで、重要になってくることは、概念はあくまで同一的なものにすぎないという事実を認めながらも、その同一性の質を常に変化させていくことを意識することにある。
「ヴェーバーが何を言い表そうとして、「構成する(コンポニーレン)という、正当科学主義からはとうてい受け入れられない名辞を使ったのか…。そこで彼が念頭においているものは、たしかに認識の主観的側面…だけである。しかし、ここで言われている「構成(コンポジツイオーン)」はそれと対をなす音楽の「作曲(コンポジツイオーン)」とそっくりの構造をしていると言えないだろうか。どちらも主観的に産出されるが、それが成功するのは、この主観的な産出作用が構成にかき消され、それとわからなくなった場合だけである。産出作用が造り出す連関—これこそまさに「布置関係(コンステラツイオン)」である—は、ここでは客観性の記号として読めるようになっている」(『否定弁証法』p.202)

5.客観性—社会の織り重なり

これまで見てきたように、アドルノはあらゆる事象における社会における影響を何よりも重視して思考を展開する。
「個々の現象を説明する試みはすべて、社会構造といったものにすぐに行き着く…一般に考えられているよりもはるかに早い段階で行き着く」(『社会学講義』p.91)
「社会とは正判定の位置にあると見える自然や自然概念さえ、実際、自然支配という必須の要件によって、したがって社会的な必要の要件によって本質的に媒介されています」(p.115)
 (→ここにおける主張の構築主義と比べてどう見るべきか?)
そして、それを覆い隠す主張を徹底的にイデオロギーとして批判しようとする
 (→小集団研究、知識社会学に対する批判(!))
「重要なのは、社会学がこの媒介性を自ら自覚することなのです」(p.124)

客観的な社会は、個人にとって、徹底的に同化を強制してくる同一的なものとしても、また様々な相互暴力、排除の存在する非同一的なものとしても、現われてくる。このような社会という客観の持つ(そして、それはしばしば支配的な主観としてもその力をふるう)分裂した性格、それ自体が非同一的であると言うこともできるだろう。
また、その客観の上で出会う個別の対象(object)も、また制度と同一的なものとして現われることもあれば、制度と非同一、そして〈わたし〉と非同一なものとして現われこともある。
それは〈わたし〉なる主観でもあり客観でもあるものの、同一性を補完することもあれば、非同一性へと導くこともある。

→ここで、社会と個人、客観と主観、同一性と非同一性、これらの対称軸はそれぞれが絡み合いながら、複雑な関係性を呈さざるを得ない。(それぞれを単純に同じ軸におくことができない)

ここで出てくるのが「布置連関」という考え方である。
社会と個人の関係、主観と客観の関係などは、個々の事象においてその現われ方が異なる。
 社会はすべてのものを媒介しているが、その媒介の現われ方は個々において違うものであり、一元的に法則化することはできない(とはいうものの、その決定性を否定することもできない)。
そこで個別のものの連関性をとらえ、それぞれの媒介の現われ方の違いを見ることが必要となる。

個別のものにはそれぞれ社会や歴史といったものが様々なかたちで幾重にも織り込まれている。
そして、その織り込まれ(=媒介)の構造はそれぞれによって異なる。それらは客観によって媒介されているという法則性を持つが、その法則自体の現われは個々に異なる。
(アルチュセールの「重層的決定」という視点との類比性?)
←ここで、社会学が(特にアメリカ社会学が)、「経済と社会」(!)の関係、歴史という観点を忘れてしまっているのではないか、という指摘(それらの「背景情報」化 (p.249))
→ひいては社会学が生成の相において理解するという批判的な視座を失っているのではないか、という指摘(p.251)

アドルノの客観性に対する3つの分け方(「社会科学の客観性についての覚え書」にて)
 科学的客観性、対象の客観性、社会そのものの客観性

→このような法則観に基づいた社会科学の論理の可能性の模索

「社会的法則性は、まさにそれが歴史性という形態を有する点で、本質的に自然科学の法則性からは区別されます。…自然科学の法則性は一般に…「つねに〜であれば、〜である」という形式を有している…。…それに対して社会学的法則の根本形式はこうです。かくかくのことが生じたり起こったり、社会においてほかならぬかくかくの方向で発展があったあとでは、かなりの高い確率で—これはマルクスでは傾向という概念で規定されていますが—しかじかのことが生じる。」(『社会学講義』p.252)

 時間性を欠いた静的な概念や法則形式、論理構造といったものに、時間性を付与することで、単なる決定論を回避すること。
(ここには、デリダの差延概念や、アルチュセールの「不確実な唯物論」と同様の方向性が伺える。これらとの接続可能性については、いずれ考えてみたい。ここで特にデリダとの対応で考えてみると、デリダの脱構築は論理構造にある決定不可能性から導き出されたものであるのに対し(これを正義と結びつける視点がデリダにはあるが)、アドルノは同様の脱構築的操作を具体的な社会、歴史から行っていると見ることもできる。このような対応にあるそれぞれの可能性を考えることはいくつかの興味深い視座を呈示できるように思う)

*アドルノの抽象的な論理構造への批判は、「A=A」という同一形式に対して行なわれていたように解釈されているが(アドルノ自身がこの例をよく使っていたこともあって)、上記の視点で見る限りこの同語反復的な関係性よりも、そもそも「=」という表現の中にある脱時間性、並列化(つまり等価交換性)に対する批判なのではないか、と考えることもできる。つまり「A=A」ではなく、「A=B」という非同一的な関係性もまた批判対象にすえられるのではないか。ここで、アドルノの思考を「=」というものに対する批判と方向転換し、「→」(この書き方もまた問題を含むかもしれないが)の思考の方向性を見てみたい。

6.アドルノの思考と社会学の接続可能性

アドルノの哲学が徹底してラディカルなイメージを持ちながらも、一方で彼の行った実証的な「権威主義的パーソナリティ」研究が、ある種素朴な社会心理学的カテゴリー構成と統計調査によって行なわれているということ。
(個人の内面に社会というものが媒介される形態と社会的カテゴリー間の関係を問うている研究。 そして、このような個人の内面化、すなわち個人による媒介を通じて、社会は運動を行う)
→質的調査と量的調査を交互に行いながら、徹底して方法論の微細な修正を行っている
「質的な所見、見かけ上は純粋に個人に関する所見…は単なる「単数領域」に属するものでなく、社会的に媒介されており、その結果、このいわゆる質的契機には常にすでに量的契機もある仕方で入り込んでいる」(p.133)
「この研究によって示されたのは、経験的方法もまた社会の経験的認識の意味で…機能転換され得る、ということでした。もちろん、その際の認識は理論を前提としているのですが」(p.240)
このようにして、理論的視座と実証的調査を媒介し、それぞれの機能転換を図る方向性

客観性の同一性、非同一性の揺らぎを見ることで、それを媒介として、実証主義、構造機能主義などと、批判理論的な方向の関係を考え直すこと。
と、同時に非同一な客観という思想に着目しながら、社会学の中で話題になりながらも、なかなか接続が難しいものである「他者論」との関係を考え直すこと。
→そのような両方向との媒介を意識することで、制度と「他者」、この異質な両者を統合するのではなく、「接合」することを試みること。

報告に関連する報告者自身の論考

参考文献(現段階では最低限にとどめる)

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