1.調査の概要 ──宇泉分教会と小野崎家
・宇泉分教会の位置付け ──直属教会・上級教会・部内教会
天理教教会本部(奈良県天理市)は、礼拝の中心「かんろだい」を囲むように建てられた神殿を中心に、「おぢば」と呼ばれる聖地として信者達の間で仰がれている。天理教の教会は、この本部─おぢばの各所における「出張り場所」であり、また人々の「手本ひながた」として神の祀り場所を許された(「名称の理」)、信仰の拠り所・広め場所といえる。現在の教会制度では、○○大教会と○○分教会の二階級制となっている。そもそも、布教線に沿ってツリー状のタテ組織を展開してきたため、上下の教会の関係は信仰上の親子(「理の親子」)として強い感情による絆が保たれている。
この内、本部に直接連なる教会を、本部直属教会(以下直属教会、○○大教会と呼ばれるものはすべてこれに属する。またこの直属教会に所属する教会を○○系統などとも呼ぶ)、また直属教会の下位教会を、規模の大小に関わらずすべて分教会と呼ぶ。だが実際には、同じ分教会の内でも自教会の親に当たるものを上級教会、子に当たるものを部内(部属)教会と呼び、それぞれ格が異なっている。
例えば、この事例で扱う宇泉分教会(栃木県矢板市)の直属教会は、名古屋大教会(愛知県尾張旭市)である。また宇陽分教会(栃木県宇都宮市)を上級教会とし、部内教会として塩原分教会(同那須郡塩原町)を持つ。
各教会内には、布教所が所属する場合がある。布教所とは、要件を満たしさえすれば将来教会となり得る教会の卵といえる。原則的には布教活動を行う教会所属信者が看板を掲げるものといえよう。宇泉分教会には、それぞれ地名を冠した上伊佐野布教所(市内)、扇町布教所(同)、富士見布教所(埼玉県富士見市)の三つがある。また教会所属信者の内、家庭で神様を祀る場合、各家庭の名を冠した講を結成し、講社祭を執り行う【→資料 [1]】。これは、後ほど信者の節で扱うことになるだろう。
・小野崎家の信仰と宇泉分教会の沿革
宇泉分教会の歴史は、小野崎家の信仰の歴史と軌を一にする。従ってまず、小野崎家初代の入信経緯を見ていくことにしよう【→資料 [2]】。
信仰初代の小野崎四郎兵衛氏は、代々庄屋を務める傍ら酒造業を営む家系の長男として、塩谷郡泉村(現矢板市)下伊佐野に生まれた。だが、彼が十九才の頃には負債を抱え麹製造に転業し、再興をはかっている状態であった。
そんな折り、胸の患いに悩んでいた四郎兵衛氏の妹みいが、京都遊行中に、湖東系の天理教信者により「においをかけ」られ、ともにおぢばに参拝することになる。そこで同郷の縁から、宇陽宣教所の笠間千代吉氏を紹介され、宇陽に参拝することになる。胃病を患っていた四郎兵衛氏も、妹からこの話を聞き及び、二十八才で信仰の道に入った(大正十二年)。
以降、家業を省みず信仰に励み、親戚家人の反対を押し切って座敷に神様を祀って宇泉集談所を開設して布教にまわった。翌年、塩原方面への布教に及んで「不思議な救け」が相次ぎ、集談所開設に至る。これが今日の塩原分教会の礎となっていく。
翌大正十四年には、神殿を新築し、四郎兵衛氏を初代担任として宇泉宣教所開設の許しが出る。その後昭和二十五年、神殿を現在地に移転新築して今日に至っている。教線は、栃木県内より、東京、大阪、北海道などに伸びた。
昭和四十二年、上級宇陽分教会のトラブル整理のため、四郎兵衛氏は宇陽三代会長に就任し、それに伴って長男一之進氏が宇泉二代を譲り受けた。また部内塩原分教会は、昭和十年に四郎兵衛氏の母タケを初代担任として宣教所の成立を見ていたが、昭和三十六年のタケの死に伴い、一之進氏の弟秀夫氏が塩原の二代目に就任している。現在は秀夫氏の事故死により、妻の茂さんが三代会長である。
一家の当主でありながら、家業に打ち込まず信仰に励んだ初代・四郎兵衛氏であったが、子供達からすれば、天理教のせいで貧乏になったという意識があったようだ。実際、家業は四郎兵衛氏の弟二郎氏に引き継がれ、現在の小野崎本家筋はこの二郎氏の系統である。従って、二代・一之進氏にとっても、信仰に対する深い理解を、兄弟たちからとくに得られていたとはいえなかった。
現在の三代会長宰氏の兄弟の内、水野享治氏は天理大卒業後、教会本部勤務となり、そこでの上司からの縁で兵神系の今道分教会(愛知県岡崎市)に婿入りし、現在は会長に就任している。他の兄弟は、講社祭を行う宇泉の信者である。
・宇泉の信者 ──信者の範囲
一般に、新宗教における信者範囲の確定は困難とされている。メンバーシップの規定が緩やかで、信仰の決断以前にメンバーとして位置付けられることすらあり得るからである。これまでは、このようなメンバーシップ取得段階とは区分して、信念体系を受容していく入信過程を対象とした研究が、新宗教の信者研究の中心課題とされてきた。代表的なものとして、宗教的信念からの世界解釈の変容[渡辺1980]や、教団へのコミットメントの度合を規準とした信念体系の受容とその効果の研究[西山1976]などが挙げられよう。また入信過程の理論的研究については、ロフランド─スタークモデルに依拠した研究がある[伊藤2003]。最近の研究では「信者周辺」の概念によって、よりフィールドの実態に合わせた把握が試みられている[川又2000]。また寺田は、これまでの新宗教における体験談研究を類型化の上整理し、批判的な検討を行っている[寺田1999]。
教団という枠組みの中で、信者が信仰を獲得していく具体的な過程を理解するためには、参与観察による調査も欠かせない。教団で行われる儀礼の場の観察を通じて、体系的教義の「演繹的」理解に先立ち、まず儀礼実践を通した「帰納的」理解が行われるという宮永の研究は、「手かざし」儀礼の実践を意義づけていくメカニズムを知る上で参考になる[宮永1980]。菊池は、信者が語る信仰物語の内容そのものではなく、教団システムの用意したコンテクストの中で物語が生成される過程に着目している[菊池2000]。このような視点も織り交ぜながら宇泉分教会の信者の範囲について、以下に見ていくことにする。
まずは教会活動への参与という面から信者の分類を試みる。教会活動の中心は、月に一度──宇泉分教会では毎月13日──行われる月次祭である。信者によっては、祭典日が休日に当たらない限り、仕事との関係で参加できないことになる。祭典の次第は、午前10時より教会長の祭文拝読に始まり、「ておどり」がつとめられた後、講話(教会長、教会役員、上級の宇陽会長)が行われるという流れとなる。祭典終了後には直会(なおらい)が開かれ、会食となる。
天理教教団における信者カテゴリーの一つに、婦人会、青年会、少年会といった所属団体によるものがある。宇泉分教会での婦人会活動は毎月26日に決められている。この日の教会本部月次祭に合わせ、本部遙拝を目的に開催されている。会長の母親を婦人会委員部長とし、扇町布教所長夫妻、その長女S.K.さん、次男夫人、扇町所属信者I.F.さん、会長の妹、そして時々これに塩原会長も参加する。
宇泉の青年会は、原則的には第一土曜に会合が持たれることになっているが、会長の予定により日程がずれがちである。信仰上の「練り合い」が目的とされているが、実際には教会のレクリエーションや催し物の相談・準備、または雑談に時間が割かれることが多い。その他に教会「ひのきしん」が行われる。W.S.氏を青年会宇泉分会委員長とし、Y.N.氏、H.K.氏、H.M.氏、T.H.氏、そして会長で活動を行っている。
会長は、毎月3ヶ所の布教所月次祭と、22ヶ所の信者講の講社祭を巡回している【→資料 ?】。2003年5月には、新たな講社が1ヶ所開講され、また病気で1ヶ所が休講であった。これら信者家庭を、一部は前会長に分担して貰いながら、基本的に毎月全戸巡っている。宇泉の信者の八割ほどは栃木県内に在住する。他に埼玉県、東京都といった近県の信者は問題ないが、遠方の信者宅は毎月訪問することができない。大阪の井伏講の場合、おぢば帰りと都合を合わせた年数回の巡回となる。このような遠方の信者とは手紙でのやりとりで「つない」でゆく。講社祭を行っていない信者宅については家庭訪問が行われる。
次に信者のコミットメント深化に従って、教団が与える過程によって分類をしていく。天理教における信仰は、聖地おぢばとのつながりの中で深まってゆくといえるだろう。天理教の信仰を始めた者は、「おぢば帰り」の度に「別席」で取り次がれる教理の話を9回聴くか、あるいは修養科に3ヶ月間入科するかのどちらかを経て、神の御用を務める「よふぼく」となる。
修養科では三ヶ月の間に、教義の受講、おてふり・鳴り物練習、「ひのきしん」に励む。そしてこの間、「別席」の順序(初席、中席、満席)を運び、最終的に「おさづけの理」を授かる。「おさづけ」によって病人の「お救け」が可能となり、神の手足として「世界救け」を使命とする「よふぼく(用木)」として生きていくことになる。また、教会長資格検定講習受講後は、「教人」となる。
宇泉分教会の「教人」は、扇町布教所長夫妻、その次男、富士見布教所長夫人、及び会長・前会長夫妻の小野崎家家族4名を含む、計8名いる。また「よふぼく」は、会長の妹と弟、富士見布教所長、扇町の長女一家4名、青年会のY.N.氏、H.K.氏、W.S.氏など、27名となっている。このほかに「別席」運び中の人たちがいるが、この中のすべてが未来の宇泉よふぼくとなるわけではなく、おつきあい上の義理での参加者もいる。またこれは稀な例だが、お供えを定期的にしてくれるという非信者もいるという。
最後に会長自身がどのように信者をカテゴライズしているかということを、彼が会長に就任する際に行った「奉告祭」招待者の覚え書きから見てみることにしよう【→資料 [3]】。「招待者」の欄には、大教会長、上級会長、栃木教区関係者などが充てられている。「案内者」欄の内、宇泉の信者は、3ヶ所の布教所関係者、山口家関係者、上記以外の信者の欄がメインとなる。布教所関係の欄には、布教所長家族の他、彼ら(あるいは先代)による「においがけ」の結果信者となった布教所所属の人たちが含まれる。山口家は、会長の叔父・叔母に当たる人たちがいる親戚筋といえる。
また地区別の欄にも天理教信者で、しかも実質的に宇泉の信者と呼べそうな人たちがいる。端的に言えば彼らは他系統の所属信者だが、所属教会が遠方で参拝できないといった理由から、個人的な縁を頼って宇泉に参拝する例が多い。
布教上の「おやこ」によるタテのつながりを基に築かれた教会制度の信仰上の裏付けによって、信者の教会への所属が正当化されている。そのため、信者の転地などによる管理上の不都合が起きやすいものと考えられる。宇泉の場合、例えば前出の青年会分会委員長のW.S.氏は、勤務先の横浜で「身上」(病気のこと)から池田系鶴英分教会につながり、同教会より「よふぼく」となっている。その後故郷に戻ってから宇泉に所属変更となった。その際、宇泉の会長が鶴英の会長と相談の上、了承を得ている。
また教会が鳥取にあるため、義理の姉の納骨先に困っていた他系統信者であるIさんの納骨の面倒を見るに当たり、会長が相手教会の許しを得るため折衝した。このように、他教会所属信者の世話取りをする際には、先方教会に対して「義理を果たす」ことが必要となる。ただ、単に参拝する程度では、このかぎりではないという。
宇泉の信者は、布教所を持つなどして一家揃って代々信仰する譜代信者と、それ以外の信者に分けることができそうである。
2.現会長について
宇泉の現会長小野崎宰氏は結果からすれば、小学校教員の職を捨てて信仰一筋に生きていくことを選んだ。このような社会的軌道が、彼にとってどのように立ちあらわれ、受けとめられ、選び取られたかという点から、彼の信仰履歴を見ていくことにしたい。
・a)教職と信仰の道
小野崎宰氏は、宇泉分教会二代会長一之進氏の長男として1956(昭和31)年に生まれた。宇都宮大学教育学部を卒業した後、小学校の教員として西那須野町で二校、矢板市内で一校と、18年間勤務した。その後職を辞し、信仰一筋の道を決意することになる。
この間の信仰上の歩みでは、大学四年で修養科へ入科、教師になって六年目頃に夏休みを利用して三週間の教会長資格検定講習会を受けている。また各種教育機関従事者とその経験者の天理教信者による教内団体である「道の教職員の集い」[1]に、資格検定講習を受けるために欠席した年を例外として毎年参加している。
信仰上の悩みや迷いというものは、回顧する中で構成された記憶だとしても、天理教を信仰する小野崎家の長男としてこの時代に生きてきたという文脈に位置付け得るものと考えられるだろう。
彼は二十代後半にさしかかった時期に、結婚や将来について不安を抱いていた。彼が27〜8才くらいの頃、大教会長から縁談があった。相手は大教会住込みの女性で、ともに上級の宇陽を継いで、弟享治氏が宇泉を継ぐという話であった。相手に不満があったわけでもないし、何より大教会長からの縁談であったにもかかわらず、結果としては断ってしまった。彼自身によれば、信仰に自信がなかったことが大きいという。また信者たちからの宇泉後継者としての期待の声があったことも、判断に影響していると考えられる。
奥さんの至恵さんは、那美岐系両野分教会(栃木県足利市)信者で、教会経営の幼稚園で保母をしていた。天理教学生会での活動を通して知り合い、その後「道の教職員の集い」で再会することとなる。彼は長男で彼女は一人娘ということで躊躇していたが、「お父さんが家を出てもいいといっている」の一言で結ばれることになる。
結婚相手の客観的な選択肢としては学校の同僚も可能性としてはあり得たかもしれない。ただ彼自身としては、やはり教会を継ぐということが判断に大きくのしかかっていただろう。二十代後半の時点で、教会長、しかも宇泉ではなく宇陽の会長としてデビューしなくてはならなかった縁談は、結局結婚願望を乗り越えることがなかった。
結婚や将来への不安から、一時期彼は「ノイローゼ」のような状態で、夜寝付けないことがあった。将来のことをあれこれと迷って不安を抱くことは、信仰上からいえば「先案じ」ということになる。「先案じ」とは、人間心からの迷いによって生じる不安であって、神に凭れきって信仰に身を任すことができていないことを現している。心を定めて信仰に打ち込めば、結果として「天の理」に適い、自らにもよい果報が現れる。彼は毎朝神殿掃除の「ひのきしん」をする中から、よろこびを感じることができ、また不安も解消された。「ひのきしん」自体は信仰的実践として、日常的に行われている。だが、このときの「ひのきしん」は、特別に重要な意味をもっているといえるだろう。彼はこの体験を「信仰原体験」と位置付け、先々の心配は止めて、今できることを精一杯にやっていこうと考えることができるようになった。
父親が長い間腸閉塞を患っており、病をおして会長を務めていることに対する心配があったため、「いつまで教師を続けられるのか」という気持ちはあった。病気と闘いながら命がけで信仰している父親の後を継いで早く交替しなくてはという気持ちと同時に、会長としてやっていく自信のなさから不安も感じていた。このジレンマから、神様からどういう思し召しがあるか、何かを見せられてから教師を辞めようと彼は思っていた。
道の教職員の集い役員会出席の際、「かんろだい」で参拝していると、腕時計が外れて落ちた。この時計は、初めて卒業生として送り出した教え子たちからのプレゼントであった。彼はこれについて「教師を辞めろ、時間がない、成人を急げ」といった神からのメッセージとして受けとめた。
教祖百十年祭(1996)の際、信仰の上で「成人」しなくてはならないとの決意から、百十年祭にちなんで路傍講演110回の「心定め」をし、三年間実行した。その結果、彼は自分が変わっていけるという自信がつき、また自分の性格が変わっていくところに信仰の喜びを感じた。
西那須野町で二校15年勤務し、学区変更を迫られることになった時点で、通勤可能な矢板市を希望した。もし希望が通らなければ教師を辞めるつもりでいたが、希望が受け容れられたので「もうちょっとやってろということかな(という神の思し召し)」と判断した。矢板に移ってからは、勤務先が研究指定校となっていた。そこで三年後の研究発表を終えてけじめがついたので、異動希望を出す段階で退職を決めた。その際、奥さんと相談すると理解を示してくれた。今までは収入源が断たれる不安から反対されてきたが、路傍講演に打ち込む姿から理解が得られたのか、今回は同意してくれたという。彼は心定めをして実行したことが「働いた」と考えている。
ここまで勤務し続けて教務主任というポストも見えかかってきたが、管理職では続けてゆく意味がない。子供達と接する中から、教会長としての「理の子」の育て方を学んできたつもりだったから、ここが潮時と判断した。この先続けると時期を逃すし、今辞めないと親不孝になる。神様がし向けてくれた時期であると。
・b)東京布教
天理教の信仰者の間では、見ず知らずの土地に何の頼りもなく飛びこんで布教する、「単独布教」が一つの理想的布教者像として抱かれている。現在このような布教者をサポートする施設として、布教の家というものがある。そのうち東京教務支庁敷地内に併設される布教の家東京寮に、会長就任前の宰氏は一年間身を置いて「修行期間」を過ごした。
彼が東京で修行をすることになる経緯には、他律的な要素が大きい。だが本人の中にこれを受け入れる素地もあったようだ。現在の名古屋大教会長自身が布教の家の出身であったことから、名古屋部内の会長後継者や青年さんなどを中心に、毎年寮生を出す慣習のようなものが出来上がっていた。このようななか、教員を辞め後継者として教会を担う予定であった彼に白羽の矢が立った。
これについて家族から賛同が得られたわけではなかった。父親は健康がすぐれず、会長職の限界を感じていた。講社祭を務めるのにも苦労する有様で、すぐにでも息子に会長を嗣がせるつもりであった。妹が兄の東京行きに反対をしたのも、父親の意向を反映したものといえる。
このような状況下で、彼の判断に大きく作用したのは、譜代有力信者達の助言であった。扇町布教所長は、「理と情に迷ったら理を採るべし」と助言した。その次男のK氏は「教会のことはわれわれが支えるので、信者のためにも行って来て下さい」と励ました。この励ましに動かされることになる。当人自身は、県内の黒磯に泊まりがけで布教に出かけるなど、「単独布教へのロマン」を現実生活との両立をはかりながら充たそうとしていたところであった一方で、このような態度に甘えを感じていたという。
・c)重要な他者
以上、小野崎宰氏の信仰履歴を概観してきた。ここでは、彼の信仰に影響を与えた人物について取り扱っていく。
まず前教会長である両親からの影響を問い質したところ、それほど決定的な影響は受けていないとのことである。父親は宰氏が教員を辞める際には、会長を継いでくれることを喜ぶ一方、収入源が断たれることで大教会へのお供えが続くかと不安にも感じていた。また布教の家入寮の際にも、反対であった。普段から信仰の話や感情面を支えてきたのはむしろ母親といえる[2]。
彼が信仰上影響を受けたものとして、特定の人物が挙げられることはなかった。むしろ教団が用意する団体──各種属性によって組織されている──における活動を通して、その仲間たちから与えられた影響が挙げられた。学生会での同世代の先輩からの話の方が、より新鮮に感じた。「道の教職員の集い」では、「布教者が本分で、教職は仮の姿」という仲間の話を聴いて励みになった。また天理教の先生の話は、世間では聞けない輝きを持っていると感じられる。学生会の仲間たちが、信仰に喜びを持っている姿に驚き、また信仰の楽しさを肌で感じた。こうしてこの信仰が好きにはなったが、本当のありがたさが分かったのは、二十代後半の結婚や将来についての不安を通してであった。
ただこのような「新鮮で楽しい」体験は、教義というものを文字面だけでなく、信仰の同志と共に歩む自らの位置付けのなかで見出し、また学生仲間との「よこ」つながりの連帯の中で、「おやこ」で結ばれた教会組織で得られるものとは違った意味での「生きた信仰」経験だったのではないだろうか。
彼は、教会長後継者としての自覚を促すように、両親からとくに「仕込まれた」ということはなかったし、何もいわれなかった。ただ子供の頃、おじいちゃんつまり初代会長より「会長を継いでくれるか」と聞かれて断ったときの悲しそうな表情を、会長になってから思い出したという。
また、信者からの次期会長としての期待は大きかった。教会信者より「若先生」と呼ばれるのは心地よかったし「その気になってきた」。扇町布教所長から「将軍は三代目が大事」と、後継者として育てられた。またその次男のK氏に対しても、信仰上敬意を払っているという。
教会の長男としての宿命は薄々感じながらも、たびたび「自信がなかった」という声が聞かれるように、その責任の重さを感じてきた。教員としての職務は途中放棄できるものではないし、また家族生活を支えるという面からも手放しがたかった。こうして「時期を待つ」という態度をとらせることになる。
信仰上の「悩み」は、「ひのきしん」や心さだめの上の「路傍講演」といった乗り越え過程を経て、会長に相応しい信仰者として生きていく自信の糧となっていった。
これは「教祖のひながた」や、それを信仰の手本に昔の信仰者が歩んだ苦労の道のような天理教信者の間に共有される理想的信仰像、教義や実践といった予め準備された教団資源を活用して自らの体験の中で生き直す過程ともいえよう。
3.天理教の信仰 ──「いんねんの自覚」
・小野崎家の信仰と「いんねんの自覚」
天理教(おおよそ他の教団でも共通するが)の信仰への目覚めは、ある種の日常的連続の破綻(病気や不幸)がきっかけとなる。これは自らの身に起こって、初めて「本当の意味」で理解することができるものであって、既信者においてもこのことは例外ではない[3]。天理教の信仰初代は、小野崎家がそうであったように、ほとんどが「身上」「事情」(病気や不幸)をきっかけとして入信している。信仰初代以降の歴史は、「イエのいんねん」として、当人の「いんねんの自覚」を方向づける物語を提供するものとなる[4]。
先に、悩み事からの「ノイローゼ」が、「ひのきしん」によって救済されたことについて述べた。このとき、彼は祖父の信仰について思いをめぐらせた。祖父は熱心に信仰に励んだが、その後妹の自殺未遂と、弟の自殺という不幸に見舞われる。先代の道楽による小野崎家の負債や、病弱であったことが祖父を信仰につかせたが、「小野崎家のいんねん」の深さは兄弟の自殺という不幸の形で現れた。このような「イエのいんねん」について、自らの性格との類縁性(先案じ/ノイローゼ/自殺/不安)から悟っていく。こうして「祖父の信仰あっての自分」を見出すのである。
「いんねん」は、信仰実践によって「切る」ことができる。天理教の信仰実践には「ひのきしん」「おたすけ」「つとめ」などがあるが、ここでは「おたすけ」と「いんねん」の関係について触れておこう。彼は「ノイローゼ」や不安を体験することによって、精神的に苦しむ人の気持ちが理解できるようになったという。(これは今回のインタビューを行うだいぶ前の話によるが、彼は知的障害者や精神疾患を持った人たちのおたすけをすることに「いんねん」を負っていると語っていた。つまり彼らは自分を映す鏡であると。)
「人たすけたら我が身たすかる」「たすける心がたすかる」といわれるように、もともと神の意に添わない「欲」の心が自らの不幸を招いたのであるから、「たすかりたい」という心すら忘れるほどに、おたすけに奔走できるような心に造り替えることが救済につながっていく。
「いんねんの自覚」は、天理教の信仰の根幹であるといえる。だがその大切さをとくに重視して説くのは、名古屋大教会の一つの特徴といえるかもしれない。ここで名古屋大教会長と、宇泉会長がどのように接しているのかについて触れておきたい。会長が大教会長と接する機会は、大教会における教会長会議の席、布教の家卒業生に対して年に一回頂けるお話の場、大教会月次祭前日に頂ける個人的なお話などである。これらの機会を通して、大教会長から教理上の「お仕込み」を頂く。教理上の導き以外でも、「お救け」の際に教会で背負いきれないような場面に出会したときにバックアップして貰ったことがある。またおぢば帰りの際に、詰所(信者用の宿泊施設、直属教会ごとに建てられている。)を利用できるのもありがたい。
会長夫婦は子宝に恵まれなかったので、人工授精や里子を考えていた。このことを大教会長に相談すると、教会後継者として「理のある」人を考えたいのでこちらで任せてほしいとのことだった。そして大教会長によって、塩原会長の長男庄一氏の赤ちゃんを養子として迎え入れることになった。庄一氏は、宰会長のいとこに当たる。また赤ちゃんは大教会長の命名により、初代会長・四郎兵衛氏の生まれかわりとして「志郎」と名づけられた。
「いんねんの自覚」は、ひとりの信仰者を、イエの系譜に位置付けさせ、また「理の親子」の関係の中で実践的に裏づけられる。これらが互いに、「いんねん」に対するリアリティを補強しあっているといえるだろう。
・「誠実さ」と「計算高さ」
天理教では、「おつくし」(「お供え」)をすることが、救済に至る一つの実践と見なされる。「理の親子」のつながりは、精神的側面だけでなく、「お供え」によっても結ばれている。これをどのように理解したらよいのだろうか。まずお供えの意義について、インタビューで得られた回答より再構成してみたい。
教会は、たとえ貧しい中でも「喜び、勇んで」信仰の道を通っていくことができる場でなくてはならない。上級教会へのお供えをしなくてよいということになれば、確かに楽はできるし、生活的にはレベルもあがるだろう。だが、それでは天理教の教会で信者さんたちの心は磨かれない。仮に教会が贅沢しているようでは、信者さんたちがそれを見てお供えをする気がなくなるだろう。教会で楽をしよう、豊かになろうという考え方は間違っている。上級にお供えをすることで子供(理の子)たちが救かっていくのだ。
「お供えをすることで心を磨く」ということは、外在的な研究アプローチからは不可解といえよう。そこで天理教の信仰上どのようにお供えと救済を結びつけているのか、教理上の解釈によって補足しつつ、引き続きインタビュー内容を引用して理解を試みたい。
信仰者にとって「教祖(おやさま)のひながた」は、苦労の中であっても勇んで歩んでゆくための励みであり、実践すべき規範でもある。そしてひとりひとりが信仰を広めてゆくことによって、地上のユートピアである「陽気ぐらし」の実現が目指される。
教祖の嫁ぎ先である中山家は、庄屋格の家柄で、いわば世俗の富の象徴といえる。神の命により、財産を貧民に分け与え、屋敷を取り壊させ、富を手放すことによって「貧に落ちきる」に至る。教祖によってたすけられた者たちが集まってくると、彼らの「ひのきしん」によって信仰の館として再生する。
世の中の不平等や混乱というものは、人間の規準で、世界を「高山」「谷底」に造り上げていることによって生じるのであって、本来どちらも等しく神の子として「たましい」を同じくする者たちである。信仰者は、この世界を「ろくぢに(平に)踏み均す」教祖の手足として、歩んでいくのである。
彼は言う。自分の豊かさを追求するその心が「欲」を生み出し、すべての争いの根元となる。つまり、きれい事でない本当の世界の平和は、すべての人がこの「欲」を捨てるところから始めなくてはならない。まずは自分たちからの実践として、自らを低いところに置かせて貰うようにしている。自分たちはみんなが救かった後、最後に幸せになればいいので、信者さんの最低ラインに合わせた生活を目安としている。
ただこのような信仰上の決意からの実践も、自分一人だけではなく家族への配慮が当然必要となる。家族の支えもなく、独りで教会をやっていくことはできない。家族との相談や練り合いを通して「喜べる」範囲でのお供えをすることが、「自分の限度」という。このような実践には「先行きへの不安との闘い」があるため、神様を信じてゆける力を夫婦揃って持っていないといけない。
単に教理的裏づけに沿って実行するわけではない。彼らにとっても手放すことが不安でならない、この社会で生きていくための財産──「欲」として信仰上手放すことが求められている──に対する葛藤の中でお供えが行われているのが分かるだろう。
以上のような実践は経済還元論では理解できない。むしろ研究者の身に染みついた前提、足場の方を問い直す必要がある。経済中心の社会の中で、それに対抗する真理への信念をもって行う、そのような「利害関心」の下での「合理的行為」として理解していく努力が必要であろう。
4.問題意識と研究課題
・新宗教教団における信者研究
今回の発表は、おもに宇泉会長のインタビューに依拠して、会長の信仰履歴や教会活動の概要を把握する内容となった。だが今後は、本来の目的である信者研究に展開していくことを目指している。
会長の信仰史は、個人のライフヒストリーにとどまらず、この教会に働く教団内力学との関わりで捉えることができる。宇泉に連なる「理の子」である信者たちについても同じことがいえよう。その一方で宇泉の「正式メンバー」のみがこの教会と信仰的なつながりを持っているわけではない。教会組織の公式的枠組みを越えて信者が把握されるべきではないだろうか。
筆者はかつて、社会的世界についての主観的現実と客観的現実の両側面をおさえ、主体と客体の弁証法過程と捉えるバーガーとルックマンによる社会化の議論に依拠しつつ[バーガー・ルックマン1977] 、信仰の受容過程について考察した。天理教報徳分教会における「住込み」たちの宗教的社会化過程を、「公式教理」の受動的理解ではなく、「現場の教理」の体得としてとらえた。すなわち、教会長の身体化された教理による指導、信仰実践とそれに基づく生活規律の場である教会、その中での人間関係を通して信念体系が受容される点に着目した[青田2001]。
田辺は、レイヴとウェンガーの提起する「実践コミュニティ」モデル[5]を取り上げ、現場における相互作用を通した実践の創出に焦点を当てる。従来の社会学のように共同体や組織といった固い枠組みを前提とせず、組織の境界線とずれながら協働・葛藤する実践の境界線を観察の枠組みに据える。またこの中で行われる儀礼修得の過程は、たんなる模倣的実践ではない[6]。身体に蓄積され、なかば無意識化した実践の発生母胎としてのハビトゥスという考え方も捨てがたいが、観察の場面では、より示唆に富むものといえる。
例えばこの事例においても、教会長の交流は教団の「おやこ」組織を越えて形成されているのが見て取れるし、また信者たちも教会系統を越えて地理的・人間的距離に惹かれて宇泉に集まってきている。
・宗教調査に関する一考察
ある種の社会学者にとって、このような信仰集団および信仰者の諸行為の裏に、構造的無意識、潜在機能といったものを見出すことによって、当人達が意図・予期しない客観的帰結を引き出すことは可能であろう。このような分析には、観察者の視点が、当の行為者の視点を越える優位な地位を獲得し得るという前提があるといえる。
だがそのことにより、信仰という現象の重要な側面、すなわち信仰対象──また聖地や、それに基づく施設、信仰の同志、あるべき世界そのもの──への「誠実」で「無心」な帰依が欠かすことのできない信仰者の必須条件だという事実を見落とすことになる。「隠れた意図」は、晒されれば当然当人達の感情的反発を買うであろうし、そもそもそれらは意図されないことによってのみ意義を持つものといえる。
だとすれば、信仰集団をフィールドワークする者なら、信仰者から一度は向けられる「信心してみなくては本当のところは分からないよ」といった言葉の内に、信仰することが客観的視点と折り合わないということを「肌で分かっている」という、意思表示や不信の表明が含まれることについて、真摯に受けとめる必要があろう[7]。
それは、どれだけ見かけ上の同意を得られても、信者にしてみれば根本的なところで利害が一致しない、あるいは自分たちの利害を侵害しているという事実を思い起こさせる。とはいえ、これら観察者の視点を忌避した上で、「当事者の視点」に立脚することが解決方法ではないし、ここでの方法論的前提とすることはない。観察者の視点は、どんなに信仰者の目線まで降りたとしても、所詮はよそ者の視点といえる。それは、対象へ打ち込むことを前提とした信仰集団への根本的参与条件を受け容れることができないからである。調査対象者に対する細心の注意を払った気遣いは当然としても、調査者が方法論上や研究者の心がけとしてはともかく、実際フィールドに足を踏み入れた以上「中立」「客観性」といった全体的視野を主張するような立場は採り得ないと考えた方がよいのではないか[8]。
調査者に問われる「誠実さ」や「献身」を、信仰者のそれとは異なる規準で──しかも信仰者の理解を得るために──表すという態度[ウィルソン2002:18]は、言ってみれば自らの足場を確保するために、相手の「誤認」を利用することではないだろうか。宗教に対する科学的態度は、しばしば宗教が持つ神聖さを侵害すると受けとめられる[ウィルソン2002:18]ということは、調査というものが調査対象者および彼らの抱く価値体系を破壊することが予期されているものと考えられる。
だとすると、ウィルソンの提唱する共感的デタッチメントSympathetic detachmentとは、見方を変えれば、調査者が調査対象者に対して接していく上で、異なる価値の交錯を正当化するという申し開き程度のものでしかあり得ない[ウィルソン2002:31]。
教団調査におけるラポールの形成は、調査における人間関係をスムーズにするという以上の意味合いが求められるといえよう。それは相手に理解を求めるというより、むしろ研究者の「認識論的切断」に求められるのではないだろうか。研究対象である宗教集団を相対化することより、それを相対化する研究者自体を相対化することが必要と思われる。このフィールドにおいては、調査者の身構えと、それが調査対象へ与える影響が甚大であるとすれば、「共感」「誠実」「中立」「客観」といったことが現場で主張できるのだろうか。