〈危機の時代〉の行為論 基調報告要旨[Microsoft Wordファイル:47k

中村文哉・鈴木健之

「〈危機の時代〉の行為論」。これが本シンポジウムのタイトルである。以下では、このタイトルを主題化させた問題関心を示すことで、本シンポジウムの基調報告にかえたい。

1.社会科学の方法論的基礎としての社会的行為論

 周知の通り、社会的行為論は、19世紀に展開された心理学的社会学や精神科学などの潮流、あるいは「生の哲学」や「新カント派」といったより大きな潮流のもと、20世紀初頭にヴェーバーが「理解社会学」として定式化させた理論展開からはじまった。爾来、社会的行為論は、ヴェーバーの「理解社会学」に対する哲学的な基礎づけをもとに展開されたシュッツの『社会的世界の意味構成』(1932)における現象学的社会理論(「自然的態度の構成的現象学」)の試みや、ヴェーバー社会理論を中心にヨーロッパにおける社会諸理論の統合をめざしたパーソンズの『社会的行為の構造』(1937)における「主意主義的行為論」の試み、さらにはハバーマスのコミュニケーション的行為の理論やエスノメソドロジーなどにも批判的に継承され、20世紀社会学の多様な理論展開の足場の一つを担ってきた。
 社会的行為論とは、社会的行為を社会科学の方法論的基礎とする社会理論、すなわち行為から社会現象を照射する社会理論であると整理することができる。たしかに社会的行為論は、シュッツによる現象学的な展開や、パーソンズによる主意主義的な「行為−システム論」の展開など、多様な姿をみせたが、しかしそこには行為者の見地から、ヴェーバーの「理念型」概念に代表される科学的類型により、社会的行為の意味を理解的に解明するという共通の理論枠組みを確認することができる。
 こうした社会的行為論の理論的意義は、何にあるのだろうか。この点は本シンポジウムの主題の一つでもあるので、ここでは基本的な事柄のみを確認するにとどめよう。
 ヴェーバーが「社会学の根本問題」の冒頭で示したように、社会的行為論は、社会現象を意味現象として捉える視角をもっている。シュッツは、この点をさらに掘り下げ、社会的行為の意味を、行為者の意識体験という発生位相にまで遡及することにより、社会的行為の主観的な意味構成という局面を把捉する構想を示した。
 社会学方法論としてみた場合、こうした局面の把握が重要になるのは、とりわけ科学的な法則や規則から逸脱する例外的で偶然的な出来事、あるいは科学的な法則や規則を否定するような出来事を捉える場合である。デュルケームに代表される「社会学的実在論」、すなわち「方法論的集合主義」を典型とする法則科学的な社会認識は、簡潔にいえば、一定の社会や社会現象がもっている法則的な規則性や社会構造などを把握する点で優れた方法論ではあるが、しかし、それらからの逸脱現象を個性把握的に解明することはできない。この点で、社会的行為論は、法則科学的な社会学方法論を補完することができる。
 このようにみると、「社会実在論」対「社会名目論」、「方法論的集合主義」対「方法論的個人主義」という社会学方法論の分類軸は、「対立」を示すものとして措定されたということもできるが、その一方で、それぞれの社会学理論に内在している遠近法的な限界を示すものということもできる。それゆえ両者の関係を、対立ではなく、相互補完的な関係として捉えることにより、社会学方法論の実り豊かな展開を構想することができるであろう。マーシャル、パレート、デュルケーム、ヴェーバーらの社会理論を綜合し、「主意主義的行為論」を構想するパーソンズの『社会的行為の構造』の試みは、おそらく、社会的行為論の側から、この遠近法的関係を把捉しようとする理論的冒険の一つとみることもできよう。
 さて、上記のように整理される社会的行為論の概要は、極めて一般的なものであろう。しかし、社会的行為論の問題圏の核心に迫り、そしてそれを踏まえて社会的行為論のもつ今日的な意味を問い直すには、このような方法論的な次元に留まるだけでは不十分であろう。本シンポジウムでは、社会的行為論を代表するヴェーバー、パーソンズ、シュッツのそれぞれの理論的思索の背景をなした同時代的状況から、それぞれの社会的行為論を捉え返し、それを踏まえて社会的行為論がもっている今日的な意味や可能性を問い直すことにしたい。本シンポジウムのタイトルにある〈危機の時代〉という言葉は、ヴェーバー、パーソンズ、シュッツのそれぞれの同時代的状況を特徴づけるキーワードである。

2.20世紀という時代

 社会的行為論の展開は、本稿の冒頭でふれたように、ヴェーバーの理解社会学の成立を端緒とする。彼の理解社会学の構想は、「ロッシャーとクニース」(1903,05,06)、「客観性」論文(1904)、「理解社会学のカテゴリー」(1913)、「社会学の根本概念」(1921-22)などに示されるが、これら一連の論考は、彼が精神疾患から復帰した1903年以降に発表された。この点を踏まえると、ヴェーバーの理解社会学=社会的行為論の構想は、それまでの19世紀のドイツでの社会科学方法論争を踏まえ、20世紀初頭に成立したとみることができる。すなわち社会的行為論は、社会学理論の学説史上、20世紀に登場したということができる。
 しかし、どうして、社会的行為論は社会学の学説史上、この時期に成立したのだろうか。
 ここから、社会学にとって20世紀、とりわけその初頭は、どういう時期であったのかという問いが頭をもたげてくる。その詳細については本シンポジウムの各研究発表者に委ねることにして、以下では、ヴェーバーの「理解社会学」が成立した20世紀初頭前後からシュッツとパーソンズがともに、ヴェーバーの「理解社会学」を継承しつつ、自らの社会的行為論を展開した30年代、そしてシュッツとパーソンズの個人的な出会いがあり(1938年秋──1941年4月21日)、また双方の社会学的思索を左右させたとみられる「第二次世界大戦」までのドイツ、オーストリア、アメリカの歴史的推移を、本シンポジウムに関連するとおもわれる点に限定し、簡潔に示しておこう。

2-1. 19世紀後半から第二次世界大戦までのドイツ社会を中心とした動き

 19世紀後半のドイツは、絶対主義体制の残存により国家統一が進まず、近代化のメルクマールとなる市民社会の形成が滞ったままであったが、産業革命が進展し、工業化社会への動きがはじまった。こうした状況下、プロシャのビスマルクが、1862年にプロシャの首相に就任し、自由主義勢力を押さえるかたちで国家統一を目指し、普墺・普仏の二つの戦争を介して、1871年にドイツ帝国憲法を発布し、国家統一を果たした。さらに彼は外交手腕を発揮し、イタリアとオーストリアとの間で「三国同盟」を結成し、軍拡を図った。
 こうした状況下、トルコ帝国の配下にあったバルカン半島では民族独立運動が激化し、これに利害関係をもっていたトルコ、ロシア、オーストリアの関係が緊迫化するなか、1914年6月に「サラエボ事件」が起こり、オーストリアのセルビア攻撃を契機に第一次世界大戦が勃発するが、オーストリアに加担して参戦したドイツは敗戦に終わった。敗戦の1918年以降のドイツは、社会的混乱とともに、戦後処理からくる多大な戦債に苦しんだ。
 ちなみに、青年期のシュッツが過ごしたオーストリアでも、同様の事態を迎えた。第一次世界大戦の敗北によりハプスブルグ帝国(オーストリア帝国)が解体し、共和制がしかれたオーストリアは、戦債による経済問題をはじめ、社会的混乱に苦しんだ。
 第一次世界大戦敗戦によりドイツでは食料や物資が不足し、国政が不安定になるなか、ドイツ軍部から革命組織が中心になり、1918年11月9日にドイツ革命が起こり、最も民主的とされる憲法をもつ「ワイマール共和国」が成立した。しかし、この政治体制は保守派勢力と新勢力(社会民主党を中心とする勢力)の政治的妥協により成立したため、政情が不安定であり、これに件の戦債問題をはじめとする経済問題が影響し、『自由からの逃走』(フロム)の兆しがみえはじめた。1933年、ナチスのヒットラーが政権をつかみ、軍拡による周辺国の侵略・合併を繰り返し、1939年、第二次世界大戦が勃発した。シュッツは1938年、ドイツのオーストリア合併を期に、パリを経由してアメリカに亡命した。

2-2. 19世紀後半から第二次世界大戦までのアメリカ社会の動き

 19世紀後半のアメリカでは、資本主義が高度に成長していく段階を早くも迎えたが、20世紀にはいると、資本の独占が生じ、所得の階層間格差が著しくなり、都市部においては資本主義に典型的な貧困問題やアメリカ特有の社会問題である移民問題などが発生した。ちなみに、この時期は、社会問題の解決のために、1892年にアメリカ社会学の「ビッグフォー」がシカゴ大学に集結して「シカゴ学派」が誕生し、その第一次世代が活躍しだした時期に重なる。その後、1920年代前半にかけては、世界でいちはやく大衆社会が出現し、アメリカ経済は順調な成長をみせていた。そのため1920年から翌年にかけて、西欧諸国からの移民が急増したが、これをうけて1921年、アメリカは移民の制限を行った。
 しかし、20年代末の1929年、ウォール街での株式暴落をきっかけに、1932年まで「世界経済恐慌」が起こった。銀行倒産、不況、失業などアメリカ経済が失速し、これが世界的な規模での経済危機にまで波及した。その原因は、第一次世界大戦での戦債、生産の過剰、アメリカにおけるフロンティアの消滅、移民の制限などとされる。これをうけて、1932年代以降、ルーズベルト大統領の「ニューディール政策」による経済対策が展開され、国家が市場保護のために経済介入する国家独占資本主義が成立した。こうした状況のもとで、アメリカは第二次世界大戦を迎えた。

3.〈危機の時代〉と社会的行為論

 以上のように、19世紀後半から第二次世界大戦前後の歴史的経緯をみると、ウェーバー、パーソンズ、シュッツが生きた同時代的状況は、工業化や経済発展に伴う社会変動の問題、独占の発生や経済恐慌といった経済面での出来事、第一次世界大戦による社会的混乱や国際関係の変動、ファシズムの誕生と第二次世界大戦の勃発がたて続けに生じた、世界的な危機の時代であったということができる。
 工業化社会の誕生、経済恐慌、世界大戦などにより、社会そのもののあり方がこれまでとは違ったものに大きく変動していく時期。それが19世紀末から20世紀初頭、およびそれ以降の事態的な推移であったとすると、そこから失業問題や犯罪、さらには移民や政治的亡命にともなう異文化間接触などといった新たな社会問題が陸続と噴出し、これまでとは異なる新たな社会像を模索する時代的要請があったことが確認できる。既存の社会構造が崩れ、それが新しいかたちの社会構造へと構造転換される時代状況は、一種の社会解体とでもいうべき「危機」の発生を意味する。あるいはシュッツの「危機」の定義に従えば、それは、これまで自明であったものが突然その自明性を喪失し、社会的現実の新たな意味や「状況の定義」が必要になる事態の発生ということもできる。
 事実、パーソンズもシュッツも、こうした時代状況のなかを、それぞれ生きてきた。パーソンズは40年代に一社会学者としてナチズム批判へのコミットメントを試み、あるべき社会・国家の姿を問題にした。シュッツも、ナチスのウィーン侵攻を前に、1939年、亡命を余儀なくされ、「よそ者」(1944)、「博識の市民」(1946)「社会的世界と平等性」(1954)などで自らの体験をモチーフにした論考を発表した。
 このような社会変動や新たな危機の創発にともない、社会学もまた理論的な視点の転換が図られなくてはならないのは、言をまたないであろう。社会学におけるこうした一つの視点の転換が社会的行為論の誕生を促したとみることができるとしたら、この理論展開は、社会的危機という背景的な地平のもとに成立したということができよう。
 もし、そうであるとするならば、社会現象を行為者による動機や主観的意味として捉え、それを理解的方法から迫ろうとする社会的行為論の基礎的な理論的視座は、それまでの既存の社会学とは異なるラディカルな視点であると位置づけることができる。換言すれば、デュルケームに代表される「方法論的集合主義」という社会学の趨勢のなかから「方法論的個人主義」という新しい方法論が定式化されたことにより、20世紀社会学における視点の転換が生じたのも、そして社会的行為、行為者、社会的人格、主観的意味などの概念が示すように、この転換が、既存の社会法則の予期をはずすような現象や既存の理論枠組みでは捉えきれない社会現象の発生により、それまで自明視され捨象されていた個人や個人意識の問題を新たに主題化させたのも、社会的危機が促したものとして捉え返すことができるのではないだろうか。
 社会的行為論という一つの社会学方法論を単に社会学理論の問題として位置づけるだけでなく、社会的危機という時代状況の問題として捉えることにより、今日の社会状況に対して社会的行為論がもつ方法論的な可能性を開示させることができるのではないだろうか。


 本シンポジウムは、以上のような問題意識を基調に、社会的行為論という学的な営みを問い直したい。

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