理論と経験的研究との接続にむけて[Microsoft Wordファイル:25kb]

田中俊之(武蔵大学大学院)

1. 理論から経験的分析へ

一つの章で疑問に思ったことが、次の章では必ず解消される。緻密な思考の積み上げによる論理展開、これが『過去と記憶の社会学』の最大の特徴である。こうした展開が可能なのも本書が「基本的には書き下ろし」[213]であることによるのだろう。論証するとはどのようなことかという格好の見本を示された思いがした。

二点目の特徴として、具体的な事象の分析と理論との関係が強く意識されていることがあげられる。序章ではテレビ番組の内容から過去と記憶そして自己との関係について着想を得たというエピソードが紹介されているし、後半の二つの章(第7章、第8章)で現代社会論が展開されているのも、そうした志向性のあらわれとして受けとれる。

理論的な面ではその圧倒的な説得力にただ納得するしかなかったこともあり、今回は本書で展開された理論と経験的研究との関係について考えてみることにしたい。こうした選択は、理論的な展開だけではなく「経験的分析のための一つの典型として生かされることを願う」[208]という記述からすれば、筆者の意図とも合致する。また、例としてジェンダーを取り上げ論じていくことにするが、随所でこの領域にたいする記述が垣間見られる[3、11、109、184、203、210]ことから、これもあながち的外れではないはずである。

2. 自己が自己を物語るとき

理論を経験的な分析へと架け橋するためには、第一にいかにして事例を集めるのかということが問題になる。自己が過去や記憶を参照し、自己を物語るとは具体的にどのような行為なのだろうか。あるいは具体的にどのような場面を想定すればよいのだろうか。実はうまく思い浮かべることができない。「物語ることは、自己に閉ざされた単なる語りではな」く、「それを受け入れ、あるいは拒否する他者を前にした行為」[97]とされていることから、それは他者との相互行為においてなされる「発話」を伴う自己についての語りであると推察される。

そうだとすれば、データを収集する方法としては、生活史調査によるインタビューなどが連想できる。自己自身によって紡がれる個人誌と社会学者やセラピストによって紡がれる生活史との相異が、「当事者による個人誌的作業なのか、聞き手との共同の個人誌的作業なのかという点のみにある」[39]との指摘がなされていることから、生活史を「客観的な事実の集積」としてではなく、「当事者と物語と同時に聞き手の観点に依存して構築される」[同]ものとみなすならば、ひとまず生活史調査によってデータの収集は可能であると判断してよいのだろうか。

事例が生活史調査によって収集可能だとして、次に課題となるのは「語られないこと」をどのように扱うのかということである。調査者がジェンダーにかんする聞き取りをおこなおうという意図を持っていたとしても、明示的に「女/男だから〜する」という語りは出現しない。また、あえて「女/男だから〜する」と思ったことがあるかや、「女/男だから〜しなさい」と言われたことがあるかと問うても、そうした記憶が想起されることはほとんどない。「身体化された記憶」[13]に属するようなことがらは、端的に「語られない」からである。ジェンダーの物語は「異なる世代、異なるジェンダーなどのあいだで対立し、そのような対立の中で相互に付与される」[210]という側面だけではない。

これにたいして、生活史調査は言語化されたものだけを対象としており、データとしては「語られたこと」だけを扱えばよいという立場を選択することも可能である。本書ではその重要性を認めながらも、「身体化されたという意味での記憶についてはこれ以上論じない」[13]とされているが、この立場によれば調査と理論との間に溝はない。ただし、明示的な語りがなされていない以上、何をもってジェンダーにまつわる語りだと解釈するのかという問題は残されたままになる。

3. 物語とジェンダー

あらゆるインタビューの<場>で問題になることであるが、調査者は被調査者から「聞き取りたいこと」を聞き取ろうとする。これにたいしては、「意識するしないにかかわらず、またそれが一貫しているかどうかにかかわらず、インタビューに際して一定の構えをもっていることを常態であると認め、むしろその構えがどのようなものであるかに自覚的でなければならない」[桜井 2002:171]という指摘がなされている。インタビューが「<語らせる行為>の実践」[同 264]である以上、調査者が何ら目的をもたずに聞き取りを行うことなどありえないし、その意味で「一定の構え」を持つことは不可避である。しかし、調査者がすでにもっているジェンダー・バイアスの場合、それに「自覚的」であることができるのだろうか。

ある日、お父さんと息子が二人で高速道路を走っているときに事故に遭いました。お父さんは即死、息子の方は救急病院に運ばれました。運ばれた病院で、男の子の手術をしようとした外科医が、子どもを見て驚いた表情でこう言いました「私には、この子どもの手術をすることができません。というのも、実は、この男の子は私の実の息子だからです」。さて、この外科医と子どもの間にはどのような関係があるのでしょうか。[伊藤 2002:143]

この物語の筋が読みにくいとすれば、それは発言している外科医の「性別」が判断しにくいためである。「外科医=男性」という前提が身についている読み手は、この外科医が子どもの母親であるという「一番ありそうで簡単な答え」[同]にたどりつくことができない。次の語りについてはどうか。

 
入社したばかりのころは、まだ学生気分も抜けきらないっていうか、社会人として中途半端だったと思います。ただ、この仕事をこなしていくうちに、叱られたりもしましたけど、自分の中で責任感というか、自覚がでてきたたんじゃないでしょうか。でも、一番の転機になったのは、去年、結婚したことですよ。あと半年もしたら子どもも生まれてくるし、多少大変なことがあっても仕事がんばらなきゃいけませんよね。 

この自己物語においては語り手の「性別」が明示されているわけではない。それでも読み手が筋を受け入れられたとすれば、「男性」の話し手を想定して、物語を読んでいたからだろう。「男性」の自己物語として理解することによって、「学生から自覚ある社会人へ」というエピソードと「結婚して一家の大黒柱へ」というエピソードが違和感なく接続されたのである。しかし、語り手が「女性」だという可能性はある。

こうした例によって示唆されるのは、ジェンダーについて明示的な語りがなされていなくとも、調査者のすでにもっている枠組みにより、語りがジェンダーをめぐる物語として解釈されてしまう危険性である。逆に言えば、明示的な語りがなされていないにもかかわらず、語りをジェンダーについての物語だと解釈できたとすれば、それは調査者があらかじめもっていた枠組みの反映にすぎない。

だとすれば、問われるべきは「身体化された記憶」と「物語り」の間の関係ではないだろうか。「身体化された記憶」は「物語り」にどのような影響を与えるのか。また、「物語り」はいかにして「身体化された記憶」へと変換されていくのか。こうした取り組みによって、経験的分析の発展が促されるだけではなく、「過去と記憶の社会学」の射程もよりひろがるのではないかと考える。 

参考文献

片桐雅隆
『プライバシーの社会学』世界思想社 1996年
『自己と「語り」の社会学』世界思想社 2000年
伊藤公雄
『「できない男」から「できる男」へ』小学館 2002年
桜井厚
『インタビューの社会学』せりか書房 2002年
吉澤夏子・浅野智彦
「ジェンダーは語り得るか」『現代思想』No.43 2002年
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