0 はじめに;「私を読んでごらん。きみにそれができるかな?」
「テクストを読む」とは、テクストの作者ではなく「テクストという他者」の呼びかけに応答することである。
0.1 解釈interpretationの試み;語られることなく、示唆される問いここでは、『過去と記憶の社会学』というテクストの解説commentaryや説明 explanation が目的ではない。
「テクストという他者」に応答するということは、その当該のテクストに示されている諸々の主題から、自らの読み方を選択し、それに従って解釈することである。そしてテクストでは明確に語られてはいないが、「語られていない」あるいは「語りえない」という仕方で示唆されるあらたな問いをテクストに呼びかけていくことである。
1 "What"- problem ( What am I ? );自己の本質論
1.1 自己の反実在論;構成される自己=物語られる自己自己とは「自己を定義するさまざまなシンボルによって構築されるもの」であり、他者との「相互行為の所産」(1)であるといわれる。こうした構成される自己は、他者との言語的相互関係やシンボルによって表現されるかどうかに関わりなく、世界はそれ自体で独立に存在していると考える実在論に対立することになる。したがって自己の物語は自己の反実在論を前提することになる。
1.2 自己同一性の意味;「自己の物語」による同一化こうして自己の反実在論の立場からすると、他者との相互行為において「自己の物語」を物語るさいには、「本当の自己」(43)あるいは「本当の自分」(50)が、自己の物語り行為に先立って、あらかじめどこかにそれ自体で存在しているということはできない。より厳密にいうならば、「本当の自己」といったものは、その存在が確証できないのである。というのも、反実在論の立場をとるかぎり、もしも物語り行為に先立って「本当の自己」が存在していたとしても、それが物語られることがないかぎり、それを知ることはできないからである。すなわち、もしも物語り行為に先立って「本当の自己」が与えられることがあったとして、そしてそれを何らかの仕方で知ることができたとしても、それが本当に「本当の自己」であるかどうかを判断するための基準がないということである。つまり「本当の自己」についての認識は真偽確定不能となるのである。もちろんここでの認識の真偽とは、「言明と事実との一致」という実在論における真理の対応説にしたがうかぎりでの真偽を意味している。
こうして物語られる自己は、実在論において想定されるような「本当の自己」とは、べつの在り方をしている。しかし、自己が自己であるかぎり、やはりそれは自己として「同一なもの」でなければならないであろう。つまり「物語られる自己」の同一性は「現在における特定の観点から同一なものとして物語られることによって確保される」(49)ことになる。
2 "How"- problem ( How am I ? );自己の現出論
2.1「物語り」による自己の成立;「物語られた自己」の時間様態的な在り方自己が「自己の物語」によって構成されるということから、自己とその同一性の可能性の条件として自己の物語り行為の時間様態的な在り方が考察されねばならない。つまり物語り行為の構造には時間様態性temporalityが構制契機となっているからである。「物語論の示唆するものは、行為を(過去や未来という)時間の中で見ることの不可避性である」(11)。
2.2 自己の時間様態性;非現在の自己(過去の自己と未来の自己)との連続性自己は、そのつどの現在において、「もはや存在していない "no longer" 自己」と「いまだ存在していない "not yet"自己」を、時間関係のうちに位置づけることで自己の同一性を確保する。「自己は、(このような)現在の観点から過去のさまざまな出来事を位置づけ、また未来を展望する時間的な物語に位置づけることによってその同一性を獲得する」(11)。
2.3 現在の時間構制;過去と未来という二種の非現在の「あいだ間」としての現在自己の存在は、その時間様態性からして、形式的に過去と未来の「間」としての現在のうちにあるということができる。こうした存在の仕方は、自己の時間様態性にとって本質的である。さらに自己の現在は、そこでのみ過去と未来が接するところである。したがって現在における自己の物語の観点も、この過去と未来の「間」でのみ成立しうるものである。つまり自己は、過去と未来の「間」で、すなわち「もはや存在していない過去」と「いまだ存在していない未来」との相関関係のうちで、そのつどの現在における「自己の物語」を物語る観点を変化させながら、そのつど自己の同一性を再構成し確保していくのである。
過去と未来というこの二種の非現在は、いかにして現在へと関わっていくのか。過去と未来は、それぞれ痕跡と兆候、想起と予期、応答と希望(あるいは期待)という仕方でそのつどの現在へと関わり、それと同時に現在を媒介として過去と未来が関わり合うことになるのであろう。したがって、同様に現在を媒介して痕跡と兆候、想起と予期、応答と希望が相互に関わり合うのであろう。
2.3.1 過去(もはや存在していない過ぎ去ったもの、past, Vergangenhait)=痕跡traces, Spur ⇒因果論的説明=想起=応答response, Antwortung現在に過去がそれ自体で現われることはない。ただ、その痕跡が与えられているだけである。そうした痕跡から過去が想起される。こうした事態は過去への応答である。
2.3.2 未来(いまだ存在していないが到来すべきもの、time to come, Zukunft)=兆候symptom, Symptom ⇒目的論的理解=予期=希望(期待)expectation, Erwartung現在に未来がそれ自体で現われることはない。ただ、その兆候が与えられているだけである。そうした兆候から未来が予期される。こうした事態は未来への希望(あるいは期待)である。
2.3.2.0究極目的(end)としての一人称単数の死;「死へ関わっていく存在Sein zum Tode」としての自己こうした現在の時間構制のうちで、「物語る自己」は自らの死によって、あらかじめその「物語の終わり」となることが知られている。つまり「物語る自己」は具体的な生物としての人間にほかならないのであり、それは「死すべきものa mortal」であるからである。べつの言い方をするならば、それは「死へ関わっていく存在」だからである。こうして自己は自己を物語るかぎり、自らの終局endとしての「私の死」をあらかじめ「自己の物語」の究極目的endとすることになる。
「自己の物語」の終局であり、究極目的である「私の死」は、つねに「いまだ存在しない未来」である。そしてそれが、現在に到来したときそれを経験することはできない。すなわち、それ自体けっして私の経験の対象とはならないということである。私が「自己を物語る」さいに、私に固有の「私の死」はつねに未来形(あるいは仮定法)で物語られるのであり、そしてその場合にだけ「自己の物語」は有意味な物語となりうる。それ以外で過去形や現在形で「私の死」を語ることはけっして現実的な意味をもつことにはならないであろう。
2.4 「自己を物語る」観点の構成過程;過去と未来の「臨界点」としての現在現在の時間構制からすれば、そのつどの現在において、「過去の痕跡」に関して、「自己を定義するさまざまなシンボル」に媒介されて想起し、そうすることで「自己を物語ること」が可能となるということであった。そのさい、「自己を物語る」ためには、ある特定の観点が必要であった。この「自己の物語」を構成する特定の観点は、私自身の「過去の痕跡」と「未来の兆候」を一挙に手に入れるのであり、そしてそれと同時に想起と予期が起こっているそのつどの現在において獲得されたことになる。
こうした現在の時間構制における物語り行為に関して考えられた事態は、過去と未来との相関関係である。すなわちそのつどの現在は、そこで過去と未来が接する「臨界点」ということである。こうしたことは、歴史一般に関する場合にも当てはまるのではないだろうか。つまり、歴史叙述に関して、そのための特定の観点も過去の記憶だけではなく、未来の予期もまた影響するのではないか、ということである。 2.5言語的相互行為としての「われわれの物語」;他者の呼びかけへの責任responsibility, Verantwortung「物語の共有あるいは共同性」に関して、「物語は他者によって付与される」(124)ということは、複数の人間の言語的相互行為において、物語は相互に付与されるということである。そこでは「他者の呼びかけ」とそれに対する「応答」が相互行為の基本的なあり方であろう。(そこには「「応答しない」という応答」も含まれる。)
ここでの他者は、共通の現在における共時的な相互行為がその基本的なものである。しかし「自己の物語」によって、もはや存在していない「過去の自己」と「現在の自己」が同一化されていくことで自己が構成された。それと同様に、もはや存在していない(すでに死んでしまった)「過去の他者」に対する応答や、いまだ存在していない(まだ生まれていない)「未来の他者」に対する予期や期待も、歴史的な相互行為ということができるのではないだろうか。つまり、こうした歴史的な相互行為が構想されることで、現在の複数の自己である「われわれ」という在り方と、そうした「われわれの物語」の通時的な可能性が考えられるようになるからである。
こうした「われわれ」と「われわれの物語」は、言語的相互行為の共時的な共同体を前提するだけではなく、他者の呼びかけに対する責任を引き受けるという通時的な態度(歴史的な責任的態度)、すなわち「過去に対する応答」と「未来に対する希望」も共有されていなければならないのではないだろうか。
3 "Why"- problem ( Why am I ? );自己の存在論
3.1 自己の根拠ground;「自己の物語」と他者自己の存在とその同一性の根拠は「自己の物語」であり、それは他者によって付与される。
3.2 他者とのコミュニケーションの根底ground;言語的相互行為と責任的態度の共同体他者から「物語」が付与されるということが可能なのは、私と他者が同じ言語的相互行為の共同体に帰属しているからである。そしてこの共同体は、共時的・通時的なものである。
3.3 他者への責任の担い手としての自己;「自己の物語」の責任=倫理私は、こうした言語的相互行為の共同体の構成員として、他者の言語的相互行為に対して応答しなければならない。というのも、こうした相互行為における応答によって、共同体の構成員が相互に「物語」を付与されるからである。そしてそうすることで共同体の構成員が各々の「自己の物語」を持つことができるからである。
3.4 「自己の物語」のモティーフmotif(主題と動機付け);「よりよい物語」への意志自己を物語ることは、自己という主題に関わっていくという自己関係的・自己言及的な行為である。こうした自己の物語り行為の動機付けは、いかなるものであるのか。「自己の物語」に関して、実在論的な真理観に基づいて「自己の物語」の認識論的な真偽を問うことは間違いであろう。
それに対して、「本当の自己に最もふさわしい物語」(43)という仕方で表現される物語の「ふさわしさ」あるいは「記憶の適切さ」(91)といった事態はどのように把握されるのか。いずれにせよこうした物語の「ふさわしさ」や「適切性」といった判断はどのようになされるのか。このように物語の持つ積極的な価値を目指す動機付けは、「よりよい物語」への意志ということができるのであろうか。
3.5 「自己の物語」をいかに物語るべきかshould,Sollen;「よりよい生」への意志こうした「よりよい物語」への意志といったものが、「自己の物語り」行為の動機付けであるならば、「よりよい物語」は「よりよい自己」(あるいは「よりよい生」)への意志が究極の目的となるのではないか。こうした究極の目的がないとすれば、「自己の物語」はいかに物語るべきであるのか。