1.〈新たなオトギバナシ化〉を如何に未然に防ぐのか
1-01.『意味の社会学』(1998)に続く本書の読後感の中心は、〈教育〉あるいは〈社会化〉に関わるものである。つまり、かつてバーガーが語ったように、社会的世界にとって〈参入者〉が本質的な契機であるとすれば、〈科学的世界〉にとっても、それはそのまま妥当するのではないか。もしも、そうであるとすれば、「現象学の社会理論と〈発生社会学〉」を副題とする本書への評者の感慨も一定の妥当性をもつようにおもわれる。
1-02.〈科学的世界における社会化〉の問題系を本書の記述にみることができる。
《例》「エスノメソドロジーのインプリケーション」(第7章[4])
・「エスノメソドロジーが提起しているある種の形而上学批判という意味での近代性批判」云々(166)
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・「エスノメソドロジー……が到り着いている「記述」の視点は、それが自己充足的に素朴に記述に徹するとすれば、現状肯定の、無批判的な記述にのみ流れる可能性がある」。(ibid.)
・両者が同一書あるいは同一頁に記載されていることが問題なのではなく、前者=評価内容と後者=危惧とが、どのようにして対応するのか、を問題にしたい。
1-03.〈或る思索〉の共有や継承とは、そこで成立する基柢的な〈問い〉を共有ないしは継承することにある。
*「記述学」と〈問い〉の関係
・かつてデュルケムが「発生的」……と呼んだ分析と総合の方法とは、もっとも原基的……なものから次第に複雑なものになっていく仕方を探究することであった。それはデュルケムの言葉を使えば、「純然たる記述的なものであることをやめて、……まさに社会学そのものなのだ」……。発生的なまなざしを等閑視すれば、単なる「記述学」……となり、一種の現状維持的言説に陥るだけとなろう」(13)。
1-04.上記(02)のエスノメソドロジーの事例は、「形而上学批判という意味での近代性批判」の方向性(〈問い〉の方向性)を等閑視する事態が生じる可能性への危惧の表明であろう。そうだとすれば、なぜ、〈問い〉そのものを等閑視するような事態が生じるのだろうか。
⇒その1つの大きな可能態として〈参入者〉という問題系がある。
いい換えれば、〈問い〉は如何にして共有されうるのか?
ここで私たちは、パラダイム化=通常科学化という問題系に直面しているのではないか。
⇒発生社会学の定式化にさいして、〈問い〉を共有する途とは、どのようなものか?
2.「発生論」の発端は、任意ではないのか
2-01.「始原へと立ち返って問う」(29)ことは、「どこにおいても自己や他者や関係が存立する事態の「生まれいずる現場」……に立ち返ることだ」(ibid.)。
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この了解と、先のデュルケムの「発生論」(1-03)の呈示内容とは同一ではない。
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すると、複数の「始原へと立ち返って問う」途が存立しうるのだろうか。
2-02.
「疑似発生論」は真性「発生論」と如何に異なるのか。
・「幼児における人称の成立において、前人称的体験がまず先行し、そこには明確な自己意識に基づく体験があるのではなく、未分化な情動的な体験がある」(133)。
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・「舞台における役者間および役者と観客との三者関係も、疑似発生論的な前人称性を示すものとしてみることができる」(ibid.)。
・「この面での検討は発生論的議論にとっては不可欠なものである。」(ibid.)
2-03.複数の発生論の途(16)
?歴史社会論的・系統発生的な発生論(的相互行為論)の研究
?行動発達論的・個体発生的な発生論(的相互行為論)の研究
?存立構造論的・関係発生的な発生論(的相互行為論)の研究
⇒デュルケムの「発生論」的問いは、どこに位置するのか。
もしも?であるとすれば、そこで呈示される「もっとも原基的……なものから次第に複雑なものになっていく仕方を探究すること」は、要素還元による分析と統合という途ではないのか。それは、〈新たなオトギバナシ〉ではないのか。
?−04.自戒への具体的な方策とは何か。
・「シュッツの発生論的議論がある面では「非合理性」の称揚につながったり、あるいは「普遍的人間性」とでもいうべき「大きな物語」や最終的な根拠を問う思考に横滑りする可能性がある」(166)。
・「間生体的諸力」論の方向性は、文化的に構成される身体ではなく、〈野生の肉体〉を措定してはいないか。