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本稿は『自己と社会』における西原社会学の問題意識と取り組み方に関するノートである。
そこで、西原社会学の現在と展望を共有すべく次の論点に絞って議論の材料にしたい。
一、『自己と社会』の問題意識
二、『自己と社会』における西原社会学の展開:a研究領域 b研究方法あるいはスタイル
1. 『自己と社会』の問題意識:「発生社会学」の危機意識
I単なる事実学としての社会学のあり方に対して
a本書が試みてきたのは、……社会学の伝統をふまえた足腰のしっかりした社会学基礎理論に基づく「発生社会学」をふまえた「意味社会学」の社会理論の構築へむけた作業であった。権力・暴力・制度などといった問題は、言語の問題とともに、人間社会を構成する相互行為の基本的な論点である。にもかかわらず、今日の社会学は、こうした論点にかならずしも正面から挑んでいないように思われる。現象の表層論理やその整合性を求めるだけではなく、〈生〉の現場に立ち会いながら、相互行為の発生/生成と向き合っていく作業は、今後も続行されなければならない……。(290)***
b筆者はさらに……国家論や脱国家論への現象学的社会学における社会理論の展開[と]……現代日本の国家社会の知識社会学的・社会意識論的な検討を継続していく……だが、これらの作業はともに、基本となる視座の再検討を同時に遂行していかなければ、作業自体が単なる現象記述の域を超えないことになろう。(291)
cよしんばその試みが自己言及のパラドクスであるとしても、われわれの生は、あたかもシシュポスの行為のように、繰り返し問い直す生以外にないのであって、問われるのは現時点でどこまでより始原に接近すべく仮説的・理論的にたどり直すことができるかという点にあるように思われる。その試行・思考を軽視ないし否定する場合には、基層の事態はみえにくくなると同時に、議論が平板な「事実性」にのみ閉じ込められてしまうようにみえる。(54)
II素朴な理想主義に対して
シュッツは、専門家と市井の人との中間に、見識ある市民という類型を対置した……しかし、この「見識」は、情報社会化と国際社会化の狭間で語られる素朴な「理想」とは位相を異にするところの、……暴力論を含む発生論の位相での、「相互行為と表象の社会学」といった間身体的な連関の議論において考察されるべきであろう。(285)
IIIでは社会学はどこに向かうべきか
a発生社会学の消極的な定義(negative definition)
哲学と社会科学(……現象学と社会学)、独我論とその克服の理路(あるいは主観性論と間主観性論)など、ニューヨークのシュッツに対しては、……やがてシュッツが明確に表明することになる「中間領域」という場からみた二項間の重要検討課題が待ちかまえていた。(108)
独我論に陥ることを回避しようとすれば、相互性への着目はとりあえずの(再)出発点でもある。(134)
自他の分節は、……自他未分の同時性の理路、あるいはウムベルトないし我々関係の先行性がまず必要。(132)=独我論ではない
主観的「意味」は知的なそれのみに限定されてはならない……思惟や反省において知解されたものだけではなく、いわば情動面も含めて論じていくこと(133)=主知主義ではない
b発生社会学の定義:発生社会学の積極的な定義(positive definition)
「共通な諸志向性によるひとつの共通な世界は、いかにして可能であろうか」……、この問いが「現象学的探究にとって依然としてひとつの中心的な問題である」(Schutz,CPI:144)
もはやこれ以上、ことばを費やす必要はないだろう。シュッツ現象学的社会学が「中間領域」の視座に立ちつつ、自然的態度をとる人々によって経験される生活世界の構造を問題にしたことは明らかである。だがシュッツは単に自明性の世界だけを描いたわけではない。しかも単に「一人称」の独我論的な主観性だけに着目したわけでもない。むしろシュッツの視線は、自他関係を中核とする社会的な相互行為にむけられて[いる](123)
cf.「我々関係の根源的な経験」(Schutz,CPIII:82)
記述の学が学としてひとつのあり方であることまで否定するつもりは毛頭ないが……そのような表層の記述学が時代とともにある〈生身〉の人間社会のより基底の事態にどこまで迫れるかは別であろう。現時点のこうした情況のなかで、生身の人間社会の複雑な生成過程に一歩でも近づく分析視覚を模索する努力をするのか、逆にその努力は一種の「基礎付け主義」であって論理的に無限後退に陥る徒労であるとはじめからそれを拒否するのか……本書でいう発生社会学が志向する立場は、いうまでもなく後者ではない。(260)
筆者は、社会学の学説の歴史から学びながら、その知見をさらに豊穣なものにすべく、現象学的社会学の立場から社会理論の再検討に挑戦してみたいと思っている。それが……社会理論への理論的実践的な寄与だと考えているからである。(291)
c語義から見た発生社会学の定義:
「より」基底の層の観点から、つまり筆者のターミノロギーでいえば「発生論的相互行為論」(genealogical genetic interactionism)の見地から〈社会の発生〉を解明すべく(146-7)
「原基的」〈起源的〉(=genetic)な相互行為に遡る〈起源遡究的〉な側面と当の起源から任意の社会的な事柄の生成を追って解明する〈系譜学的;事象構築的〉側面からなる探求の態勢。すなわち、「発生社会学」における「発生」という語は両義的(=両睨み)であると見受けられる。
cf.原基的な場面(274)
2 発生社会学の「理論的実践的寄与」をめぐるいくつかの問い
I「もっと原基的な場面」、「より基底的な」、「より基層の」といった表現に見られる「もっと」および「より」という形容詞の意味をめぐって:「発生論的相互行為」の理論的位置づけについて
i 暴力:暴力はいうまでもなく間身体的な相互行為論的文脈で作動する。(284)
ii 言語:言語は神から与えられたものではないとすれば、発生論的な相互行為からしか生成しないので、言語的象徴それ自身も発生論的な相互行為における〈原的制度化〉の過程のなかにしか生成の場はない。(277)
iii 道徳的拘束力:類型化され物象化された世象は……間主観的に物象化された行為の習慣(慣行ないし伝統)のなかで、道徳的拘束力をもつといえる。ただし、……こうした力の発動も具体的には相互行為の文脈においてなされる。(277)
Q1:ここでいう「相互行為の文脈」自身はそれ「より基底的」な層を有するか?
この問題に関しては次のような文章が手がかりになる。
ただし、〈発生論〉的といってもここではただちに本能的、本具的な分節能力について立ち入るつもりはない。それはそれで非常に興味を呼ぶ論点ではあるが、社会理論を探求するわれわれにとっての問題は、その能力が解発される"場"こそが問われるべきことだからである。そこで、シュッツのなかに議論の展開可能性がありながら、しかしながらかならずしも明確な形で捉えられなかった論点の、その可能性の中心をこそ明確にすること、……そうした論点を明示するさいに、前期シュッツが強調した自他が時空を共有する共在世界(ウムベルト)の視点をも重ねて考えておこう。直接的経験の世界たるウムベルトは、あらゆる世界経験の基盤であるからだ。(131)
・つまり、「原的」という言葉とともに、このような探求の制限を加えるのはいかなる理論的根拠をもつのか。もし、ここでいう、原的な文脈に対して「より基底的な」層があるとすれば、本書で使われている「原的」という表現はその層の理論的開示までに留保させるべきではないか。
II発生社会学における制度論の展開:歴史・暴力の論点から
制度は一般に、発生論的な相互行為における三者関係において発生・生成し、相互行為に基づく物象化・制象化する土台のうえで存立しつつ進捗しかつ表象的に把握され、その幻影とともに暴力的な相互行為の実践のなかで導かれる類型的行為からなる。(285)
cf.(275;Berger & Luckmann, 1966:54=1974:93) 「制度化は習慣化された行為が行為者のタイプによって相互に類型化されるとき、つねに発生する。言い換えれば、そうして類型化されたものこそが制度にほかならないのである」
ただし、ここでは制度ないし制度化のそもそもの発生過程の原理面を問題とするのであって、……あらたな制度を意識的に創設するといった場面の問題(制度の創設の問題)には立ち入らない。問いはもっと原基的な場面にある。(274)
一般に制度は人びとの行為に対して指令機能をもつと指摘されるが、……人は、他者の身体物理力(暴力)によっても影響を受ける。それは、象徴的に捉えられる制度世界……が他者の(身体物理力=暴力に代表される)強制力をもってして行為者の行為を方向づける(=拘束する)事態であるといえる……そうだとするならば、実はそこに如実に存在するのは、制象化と暴力の基底にある相互行為だけであるというべきであろう。(277)
Q1:暴力は制度発生において必然的に働く要素なのか、それとも暴力の働きを欠いた(必要としない)制度があるのか。
Q2:制度一般の発生を問題にするのか、それとも制度の「歴史的」発生を追うのか。
「人間は……ものの秩序が知のなかで最近とった新しい配置によって描きだされた、ひとつの布置以外のなにものでもない。新しい人間主義のすべての幻想も、人間に関する、なかば実証的でなかば哲学的な一般反省とみなされている『人間学』のあらゆる安易さも、そこから生まれてきている。それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象」にすぎない(239, Foucault1966=1974:22)
外挿的なメタファーで社会構造のモデル作りをおこなうことは、人間行為の準位を超えたところで得られた知見・概念の手助けによって、〈生身〉の人間社会の生成と存立の基層に迫りえないアプローチであるように思われる。そして、……そのモデルの欠落を埋め合わせるかのように、無前提に超越的な神の視点のような歴史観(進化論)や、無前提的に人間の反省的理性や自省作用(主体性)がもち出される傾向のあることをわれわれは問題視せざるをえない。(260)
・「制度は一般に」という論点の限定がもし、制度という事柄の普遍的内実を問うということを表明するものであるならば、この問いに用いられる制度概念自身はフーコーのいう歴史的限定から自由なのか。
Q3:暴力と制度発生の問題: 「暴力装置=表象装置」としての国家の問題(284)
昨今の「暴力なき権力論」が暴力の問題を隠蔽する可能性があること、別言すれば、権力がその背後に大文字の暴力とかかわることを軽視すること、この点は決して看過出来ない問題ではないのか。(284)
・であれば、「発生社会学」自身は、こうした「大文字の暴力」の(=とりわけその歴史的なあり方)に関して何を論じているのか、また論じるべきか。
III 発生社会学における物象化論の位置づけ
i 現象学的社会学は「物象化論の視座に立った社会科学的・歴史科学的・文化科学的な研究にとって、方法論的"補助"手段として、極めて有効である」(89,廣松、1997:5)
ii 「ミクロ社会」と「マクロ社会」のリンケージ問題においては、両者の単なる折衷ではない歴史社会学論的・系譜学的な発生論の視座に立脚したうえで表象論という社会学的な存在論的・認識論的な議論が必要である。(52)
iii ここでいう〈役割〉は、社会学が既存の地位—役割という文脈で展開する物象化された準位の役割概念というよりも、より基層の相互行為においてみられるもの(273)
ホッブス問題との関連で、つまり、自己と社会が、それらの単なる折衷ではないというこという議論との関係から:つまり、それが単なる折衷ではないということは、個人・社会という物象化された二項対立ではない、相互性の層からホッブス問題に取り組むからなのか。もし、この読みが正しいのであれば、
Q1:ここでいう、物象化された準位/より基層の相互行為を分ける/を物語るのは何・誰か?この区分自身が物象化されたものではない保証は何か?
Q2:ある対向的他者との関係のなかで自己を類型化しつつ行為するということは、自らが一種の仮面を被って行為をするということである(なお、この仮面を被らないと拒否することでさえ、それを拒否する仮面を被ることである)(274)。
・そうであれば、仮面を被らない素顔は?「この仮面を被らないと拒否することでさえ、それを拒否する仮面を被ることである」という論理からいえば、素顔を見せること自体仮面を被ることになるのではないか。そもそも仮面を被るという表現を用いて得られる理論的・実践的意義はどこにあるのか。たとえば、この文脈における物象化論にとって「生身」(260)という言葉は何を意味し・しうるか?
Q3: 若きマルクスは「人間とは、その現実性においては、……社会的関係のアンサンブルである」とした有名な「テーゼ」を書き残しており、人間なる"実体"を単純に想定しているわけではない点は注記しておきたい。……マルクスが試みようとしたのは、「〜として」日常意識に見えている表象可能な具体的・歴史的な現在を、いったんより抽象的・基底的な形式の相互行為次元までたどり直し、それが背負う歴史社会的な「形式」を追い直すことで、現在の社会の成り立ちとその仕組みの存立を問うことであったのではないだろうか。(288)
・「表象可能な具体的・歴史的な現在」という言葉における「表象可能な」とは何を指すのか。「表象」と「現在」との関係は何か。つまり、表象を媒介しない「現在」は存在するのか。存在するのならば、それに接近する道は何か?
Q4:シュッツの「同時性の理路」は、一定の情動面を含めつつ人称的世界を超えた(あるいはそれ以前の)前人称的事態という側面をもつ。この点に関しては、たとえば幼児における人称の成立において、前人称的体験がまず先行し、そこには明確な自己意識に基づく体験があるのではなく、未分化な情動的な体験がある、ということを思い起こせばよい。(133)
自他未分状態といえども、すでにそこには吸乳からボールのヤリートリといった遊びにいたるまで、行為のヤリートリをする原初的役割分化がみられる。(274)
われわれは二人の行為者のみならず、少なくとも三人の行為者がより基底の社会的行為にかかわることがしばしばあることも考慮に入れなければならない。それゆえわれわれは、……相互行為における三者関係を主題的に探求すべきである……こうした方向性は、二元論や独我論といった「近代性」の再検討とも密接につながっている。(149)
・ここでいう自他未分状態にすでにみられるヤリートリから「原初的役割分化がみられる」という結論に至る根拠はなにか。「みられる」という言葉で明らかであるように、それは観察者の特権的立場からの結論であって、「自他未分状態」の自己開示ではない。もしそうであれば、「原基的状態」を発掘して、そこに「二人の行為者」、「三人の行為者」といった説明概念(「第一項」、「第二項」、「第三項」といった概念装置はいうにおよばず46ff)を持ち込むのは、ある種の理論的飛躍ではないか。それは、「発生社会学」における「自他未分の同時性の理路」自身、「原基的場面」に「外挿的」な手続きをあてがうことになるのではないか。
IV 生活世界のあり方と知との関係をめぐって
シュッツの射程はもっと広い。つまり、シュッツが描いた生活世界の位層においては、それをきわめて図式的に表現するならば、
i いわば「二次的生活世界論」……第三者的な観察者、とりわけ研究者によって観察・記述され学知的に分析・解釈された日常的な社会生活の世界
ii 「一次的な生活世界態」……日常生活者によって生きられ先行的に解釈され、かつその当事者が登記する、学の意味基底ともなる日常知的な経験の世界
iii いわば「基層的生活世界論」とでもいうべき、上記二つの生活世界をも可能にするより基底の、もはや「生世界」と呼ぶべき、生の体験からなると観察・分析される世界(266-7)
Q1:生活世界と知との関係は何か?たとえば、「生世界」は「基層的生活世界論」といかなる関係にあるのか。上記の区分において提示される三つの世界の存在は、それぞれの知のあり方を条件とするのか、それともその逆か。「日常的な社会生活の世界」および「生世界」が、それぞれ「二次的生活世界論」および「基層的生活世界論」と結び付けられていて、その二つの世界が「論」と結びついていることを表わしているのに対して、「日常知的な経験の世界」だけがそれに対応する「論」が提示されず、「一次的な生活世界態」と記述されるのはなぜ?
Q2:一つの生活世界に対する切り方が西原社会学にとって上述のように三通りあるのか。それとも、そのような解釈・分析による切り方以前に上述した区分において生活世界が三つの層から(=存在論的に)なるのか。
最後に一言。西原社会学の展開からすれば、「社会学における意味の問題—ウェーバーとシュッツを中心に」の段階ですでに意味社会学の展望が見られる。(また、同論文には「基底」という言葉が見られる(西原、1981:34))
"いうまでもなく、「意味」理解は、あたかも一行為主体の全く孤立した営みであるかのように解されるべきではない。……シュッツのいうように日常生活の世界ははじめから相互主観的世界でもある。そして「意味」もまた発生論的には相互主観的な性格を有している"という表現からして(西原、1981:31-2)、西原社会学が「主観的」意味に対するやや曖昧な態度をもっているのではないかという印象を受ける者がいるかもしれない。だが、そのような疑問は、"「主観」主義を徹底させることは、その根底にある相互主観的な論点を露顕させざるを得ないのである"という文章によって払拭されるだろう(西原、1981:35)。
この文章に示される方向性は実に意欲的なものである。つまり、「『意味』の社会学」は"ウェーバーが理解社会学の方法に関して述べた「意味」理解の相対的、限定的位置にかかわらせていえば、その「閉じ込められている狭い枠」(WuG,S.8)を「認め」るものとされる。しかし、一方で「意味」の社会学は、「それのみが見い出すことのできる解明の視点をどこまでも[貪欲に]追うという志向」を有するものと打ち出されるわけである(西原、1981:36)。
そして、西原社会学の貪欲な冒険は、"「意味」の検討は、実はそれ自体が日常生活世界の解明に結びつくと筆者は考えている"という旗揚げとともに始まったのだろう(西原、1981:35)。
私は、この論文(西原、1981)において構想された、「〈意味〉の社会学」が「発生社会学」を土台にしつつ「意味社会学」として展開され、最終的には「社会学」に向かうのではないかと思っている。そのような私なりの全体像から見るならば、『自己と社会』は、西原社会学の中間段階(=「足腰」!)に位置付けられるだろう。西原社会学の「社会学」としての出陣を予想させる本書を一緒に読むという場に参加させていただいたことをあらためて感謝しつつ、西原社会学の次なる戦を期待したい。
***別途の指示がないかぎり、括弧のなかの数字は『自己と社会』の頁数。