エイジェンシーの集合体的理解とグローバリゼーション   [Microsoft Wordファイル:47kb]

尾形泰伸(武蔵大学大学院)


0.はじめに

 本報告では、比較的最近の社会学的研究のなかに散見される「エイジェンシー/エイジェント」(agency/agent)という概念を取り上げる。これらは、しばしば行為/行為者を指す概念として「構造」とセットで用いられ、決定論と超越論的主体という社会学的二元論を乗り越えるものと目されている(Giddens 1979:2)。主として個々の人間行為/人間行為者者という水準で捉えられるエイジェンシー/エイジェントであるが、本報告では、これを集合的(collective)な水準において理解することを試みたい。そうすることで、社会内部での諸集団間の対立や妥協、あるいは諸社会間関係を分析の射程に入れた理論展開が可能になると思われるからである。

では、エイジェンシー/エイジェントを集合的に理解するとは、具体的にはどのようなことであるのか。詳しくは本論で述べることになるが、ここでは、個々の人間行為者を等閑視して集合体を方法論的基礎とすることではないという点に注意を促しておきたい。本報告で主として取り上げるギデンズが主張しているように、目的や理由をもつのは人間行為者だけであって、集合体あるいは社会システムそれ自体は目的や理由をもたない(Giddens 1979:7)。たとえ、ある集合体の意図や目的がひとつに定められているとしても、それは人びとの相互行為の所産でしかないであろう。それゆえ報告者は、エイジェンシーを集合的に理解するということで、人間行為者の水準を否定することを意図しているわけではない。そうではなく、人間行為者の水準を保持しつつエイジェンシーを集合的に理解することで、人間行為者どうしの社会的領域に着目したいというのが報告者の意図である。

さて、以下では、ギデンズの理論を考察の対象としたい。彼は、「エイジェンシーと構造」の二元的理論枠組みを提唱している代表的な論者と言えるが、「構造化論者」(structurationists)と称される人びと1)のなかで、唯一「エイジェンシーの集合的な基盤についてのいかなる概念も持たない」と評されている(Parker 2000:106)。なぜギデンズの構造化理論が「集合的な基盤をもたない」のかを検討することで、エイジェンシーを集合的に理解するとはどのようなことか、そしてそれはどのような含意をもちうるのかが浮かびあがってくるであろう。

本報告では、次のように論を展開する。まずはじめに、ギデンズが構造化理論の支柱に据えたエイジェンシーがどのように位置づけられているかを確認し、その問題点を明らかにする(第1節)。そのうえで、エイジェンシーを集合的な水準で理解するとはどのようなことかを述べる(第2節)。つづいて、それがギデンズの理論枠組みにおいてなぜ欠如していると言えるのかをパーカーの議論に依拠しながら考察し、その解決を図る(第3節)、最後に、グローバリゼーションを例にとって、具体的にどのような点が明らかにされるかを示してみることにしよう(第4節)。

1.ギデンズにおけるエイジェンシーの概念

 エイジェンシーあるいはエイジェントという語は、社会学的研究においては的確に対応する語がないこともありその訳語は一様ではないが、一般的用法においては「代理機関」あるいは「代理人」でほぼ定着している。もう少し正確に言えば、エイジェンシーは組織化されているような代理機関を、エイジェントは個々の代理人を指している。他方、これらが社会学的用語として登場する際には、エイジェンシーは行為それ自体を意味するものとして「主体的行為」「行為作用」などと訳され、エイジェントはその行為(エイジェンシー)の担い手たる個人を意味するものとして「行為主体」「行為者」とされる。つまり、エイジェンシーには、一般的用法においては企業や組織のような集合的形態とみなし、社会学的用法においては行為そのものとみなす、という違いが見られる。もちろん、一般的用法と社会学的用法は一致していなければならないというわけではないので、その違いを云々するつもりはない。ただ、エイジェンシーを集合体の水準において理解するという本報告の主旨からすれば、それが一般的な用法に見られるものであることを念頭に置いておいてもよいだろう。

 社会学的用法と一般的用法に差異が見られるとはいえ、「代理」という中心的な意味内容では共通している。よく知られているとおり、ギデンズの構造化理論の骨子は、ごく簡単に言えば、「構造」と「行為」(エイジェンシー)の関係性を、互いに対立する二元論(dualism)ではなく二重性(duality)とみなすことにある。(なお、ここで用いる「構造」とは、社会的諸関係の「システム」ではなく、その諸関係を秩序立てるような差異化された資源およびコミュニケーションを成立させる規則のことである。また、この「構造」が具体化される場面で「構造(的)特性」という語も用いる。)そして、この図式のなかで、エイジェンシーという概念は構造の「代理」に近い位置づけがなされている。しかし、「代理」と言っても、文字通り構造を肩代わりするというわけではない。言い換えれば、構造に重きをおいて、エイジェンシーを構造的特性の「乗り物」に貶めているのではない。そもそも、彼が構造化理論を唱えた背景には「主観主義(subjectivism)に陥ることなく主体subjectの回復する」(Giddens 1979:44)ことがあった2)。ギデンズ自身はしばしば「構造とエイジェンシーの相互依存性」(ibid.:69)という曖昧な表現をするが、エイジェンシーに、構造の例示化(instantiation)をする一方、反省的な評価もできるという微妙な位置づけをしていることは確かである。その説明図式として提示されているのが、「階層モデル」である(図1)。

「階層モデル」は、エイジェントのパーソナリティがもつ多様性を示している。ギデンズの説明をまとめると、それぞれ以下のようになる(Giddens 1979:56-9, 1984:5-6)。

図1。


(Giddens 1979:56, 1984:5)

?行為の反省的モニタリング(reflexive monitoring of action)
 行為者が自らが動く文脈の社会的、物理的な側面をモニターすることであり、行為者どうしを互いに、あるいは対象世界へと関連づける。それゆえ、これは人間諸活動が意図的あるいは目的的な性格をもつことを示している。このモニタリングはルーティン的になされるのであって、活動のあいだじゅう明確な目標が意識的に抱かれているわけではない。

?行為の合理化(rationalisation of action)
 なぜそのように行為したのか、その行動の理由を与えることによって「説明する」ような行為者の能力である。ただし、行為者は、ある行為の理由として虚偽の理由を挙げることもあるし、また、相互知識(mutual knowledge)について明示的な形で知っているわけではない。

?行為の動機づけ(motivation of action)
 「理由」が行為の根拠を指していたのに対し、「動機」は行為をうながす欲求を指し、行為の潜在的可能性を表している。動機は、一定範囲の行動が演じられるところの全体的プランやプログラムを提供する。しかしながら、動機づけは、行為の反省的モニタリングや合理化がそうであるほどには行為の継続と直接的につながっているわけではなく、比較的通常とは異なった環境、ルーティンに亀裂が生じている状況に限られる傾向にある。

エイジェントの内実は、以上のようなものとして提示されているが、これらの位置関係について補足的に述べておこう。もっとも中心的な位置を占めるのは「行為の反省的モニタリング」であり、はっきりとした意識を前提しないため、日々の生活(day-to-day life)のなかでルーティン的におこなわれるとされている。というのも、ギデンズが構造化理論の基礎であると言う「実践的意識」(practical consciousness)が措定されているからである(Giddens 1984:6)。「実践的意識」とは、「行為を実行するさいにたくみに用いられるが、行為者が言説によって定式化できない暗黙知」にもとづく意識のことである(Giddens 1979:57)。他方、言説によって定式化できる意識を「言説的意識」(discursive consciousness)と呼び、「行為の合理化」に関連づけられている。実践的意識と言説的意識との区別は言語化できるか否かの違いしかないが、両者と「無意識的動機」のあいだには境界線が敷かれているとされる(Giddens 1984:7)。言うまでもなく、この無意識的動機は、日々の生活の継続という観点からすれば周縁的な位置にある「行為の動機づけ」に結びつけられる。これらのことから、ギデンズは——実践的意識を担保することで——人間行為が意識的であり、しかも目的的、意図的であると主張するのである(ibid.:56)。

ここで、議論をもとにもどしたい。「階層モデル」を一瞥したのは、エイジェント概念が構造とのあいだで微妙な位置関係を与えられていることを見るためであった。鍵となっているのは「反省的モニタリング」であろう。つまり、エイジェントは「反省的モニタリング」をはじめとする階層的なパーソナリティによって構造化プロセスに組み込まれていながら、同時に、そうしたモニターをする、構造から自由な位置も与えられている。この後者の点については、個々のエイジェントは「認識能力」(knowledeability)および「潜在能力」(capability)をもつと述べるに留まり、それ以上に探求されることはない。例えば、「既存のものごとの状態や諸事象のながれに『差異をつくる』個人の潜在能力」を失ったときには「エイジェントであることを止める」とか、あるいは「社会実践の回帰的(recursive)な秩序にもっとも深く関わっているのは、人間エイジェントの『認識能力』という独特の反省的な形態である」といった言及がなされるだけである(Giddens 1984:3,14)。

エイジェンシーと構造の「二重性」のなかで、エイジェンシーという行為は「実践」という意味において社会的な構造に接続されている。けれども、エイジェントとしての人間行為者に関しては、個々人のパーソナリティに結びついているだけである。無関係な概念ではないエイジェンシーとエイジェントのあいだに、なぜこのような齟齬があるのだろうか。そして、それはいかにして解きほぐすことができるのだろうか。ここに、「エイジェンシーを集合的に理解する」ことのねらいがある。

2.エイジェンシーを集合体の水準で理解するということ

では、「エイジェンシーを集合的に理解する」とは、どのようなことであるのか。報告者なりの見解を明らかにしておきたい。

まず、「集合」についてあらためて定義しておきたい。ここで用いる「集合」とは、ある場所に集まった「群衆」(crowd)や「衆合」(aggregation)ではない。また、特定の地域で生活する集団に限っているわけでもない(そうした形態をとることもあるかもしれないが)。アーチャーは、「エイジェント(agents)は同じライフチャンスを共有する集合体(collectivities)として定義される」(Archer 2000:261)と述べている。本報告では、ここで言われている「同じライフチャンスの共有」という程の意味合いで用いている。それゆえ、たとえば、階級における「資本家階級」「労働者階級」、ジェンダーにおける「男性」「女性」、あるいは特定のエスニシティなども「集合」とみなすことができる。

さて、「集合的に理解する」とは人間行為を度外視して「集合体としてのエイジェンシー/エイジェントを分析単位にする」という目論見ではないということを、ここでもう一度述べておきたい。というのも、集合体としてのエイジェンシー/エイジェントを分析単位にしても、それは単に人間行為者を集合体に移し替えたものにすぎないため、前述の問題を回避できないからである。それはまた、集合体を擬人化することによって分析の対象とされるべきものを分析道具にするという誤りを犯すことにもなる。エイジェンシー/エイジェントが社会理論にとってまったく不要な概念でないならば、その意義を失わずに発展させる方途を探るべきであろう。それゆえ、「集合的に理解する」ための道筋は、誤解をおそれずに言えば、行為論の延長線上で集合(体)を把握することにある。

さて、この試みの背景として念頭にあったことを述べることで、内容を具体化しておこう。背景には、次のようなことがあった。まず、(1)エイジェンシー/エイジェントという概念は、本来的に「集合/集合体」を指示するものなのではないかとの推察である。(2)複数のエイジェンシーのシステマティックな関係性は論じられても、社会的行為にまで突っ込んだ議論はなされていないのではないかという疑問がある。そして最後に、(3)エイジェンシーはあるひとつの社会全体の構造だけでなく、よりミクロな、あるいはよりマクロな構造を含めた諸構造と重層的な関係にあるだろう、ということが挙げられる。

(1)エイジェンシーと集合体との結びつきは、先に述べたように、一般的用法にも通じるところがあるとはいえ、これは推測の域を出ない。だが、日々の生活のなかでエイジェントとしての能力を有していることを示すよう求められるという意味で、エイジェントには「役割」のようなところがあるとすれば、その源泉をエイジェントたる人間行為者に求めることはできないであろう。であるならば、エイジェンシー−エイジェントの関係を、まずエイジェントとしての行為者がおり、その行為者がなす行為をエイジェンシーであるとする認識が論理的に倒錯していることを認めなければならない。すなわち、諸々の行為のなかに「エイジェンシーとしての行為」が共通して見られることから、その行為者をエイジェントとみなしているのではないか、ということである。この時、論理的に先行する共通性が見出されるためには個々の行為者ではなく集合する行為者がいなければならないし、かつ、すべての行為者である必要はない。そこに集合体が浮かびあがってくるだろう。

(2)「階層モデル」が示していたように、エイジェンシーは行為の構成に関わっている。ギデンズは、相互行為における構造の二重性についても触れているが(Giddens 1979:81f)、実際に彼が述べているのは、相互行為というよりは「社会的秩序」であるように思える。構造の二重性は相互行為において、「コミュニケーション」「権力」「サンクション」という3つの要素が実践されると言う(ibid.)。だが、その例として挙げられているのは「言葉の使用」や、規則に沿って「道路を歩く」といった行為の「正しいやり方」と「悪いやり方」が与えられるということでしかない。よりはっきりとするのは、行為者間の闘争が描かれないことであり、「権力」は構造特性としての配分的資源の格差や権威的資源へのアクセスの可否を意味するにすぎない。こうした欠落は、ライフチャンスを共有する集合体としてエイジェントを措定し、階級間やジェンダー間などの闘争によって補強することができると思われる。

(3)次節で詳しく取り上げられるパーカー(Parker 2000)は、ギデンズの構造化理論が「フラット」であると言う。それは、それの理論では、ある社会のエイジェンシーと構造との二重性のあいだに中間的な集合体が現れてこないということを表現している。たとえば、われわれは日本社会というひとつの社会にのみ生きているわけではなく、地域社会、職場、学校、あるいはグローバル社会のなかに同時に生きてるだろう。したがって、人間行為としてのエイジェンシーは、これらの重層的な構造が時に対立したり、矛盾したりすることを含むものでなければなるまい。エイジェンシーを集合的に理解することで、そうした対立や矛盾のなかで、調整したり、あるいは反発したりする集合体を捉えることができよう。

3.ギデンズにおけるエイジェンシーの集合的水準

パーカーは、構造化論を体系的に論じたテキストのなかで、ギデンズ、ブルデュー、アーチャー、ムゼリスらの理論を比較検討している(Parker 2000)。そのなかで、ギデンズは、パーカーによって「本書のなかで唯一、エイジェンシーの集合的な基盤に関する概念をもたない論者である」(Parker 2000:106)と論定される。そして、そのことゆえに、ギデンズ構造化理論は「集合的エイジェンシーと、闘争を通じて行使される権力に接近する回路をもた」ず、さらには「集合的エイジェントを同定できない、あるいは集合体間の諸関係という点から社会統合を分析できない」と言う(ibid.)。

けれどもギデンズ自身は、システムを「規則的な社会的実践として組織される、行為者間あるいは集合体間の再生産される諸関係」としたうえで、このシステムの特性として構造を位置づけている(Giddens 1979:66,強調は引用者)。このように定義づけられた構造にエイジェンシーが依拠しているのは先に見たとおりであるから、ギデンズのエイジェンシー概念は集合体の水準にも対応しうるように見える。さらには「行為者(アクター)間あるいは集合体間の闘争」であるコンフリクトに言及し、また、「行為者(アクター)間の互酬性」である「社会統合」に、「集団間あるいは集合体間の互酬性(自律/依存の関係)」という「システム統合」を対置してもいる(ibid.:76-7,131)。

にも関わらずパーカーが、ギデンズは「エイジェンシーの集合的な基盤に関する概念をもたない」と断ずるのはなぜだろうか。その論拠をさらに遡ると、「集合体間に特有な諸関係としての社会構造に関するいかなる概念も欠落している」ことが挙げられている(Parker 2000:106)。たったいま述べたように、定義上、ギデンズの構造概念は行為者間のみならず集合体間の関係からも導き出される。しかし、具体的な構造特性として言及する規則と資源は「エイジェントが相互行為をするために用いる仮想的構造における整序(regurarities)を表しているという意味でのシステムでしかない」(ibid.)。ギデンズはエイジェンシー・構造・システムという諸概念を整合的に配していないのである。では、ギデンズ構造化理論を集合的エイジェンシーに適用できるように修正するためには、いかなる方法を採ればよいだろうか。その答えが、「エイジェンシーを集合体の水準で理解する」ということである。

問題点は2つあった。確認しておけば、エイジェンシーによって「例示化」される構造特性(規則と資源)は、エイジェントどうしをシステムとして整序化する意味でしかない、ということがひとつ。もうひとつは、第1節で述べたように、構造との結びつきを欠いたエイジェントが仮定されていることである。これらの問題は、エイジェンシーを人間行為の水準においたまま、エイジェントを集合体の水準に想定することで解決されうると考えられる。

もう少し細かく見ていくと、エイジェンシーが例示化する構造特性自体は行為者間のそれに限定されてはおらず、集合体間のシステムから導びき出される構造特性も含まれうる。この時、仮にエイジェントを集合体とみなせば、集合体間システムの構造化と読み替えることは可能である。ただし、それではエイジェンシーを集合体の水準に移し替えただけであって、「エイジェンシーを人間行為の水準においたまま」にはならないのではないかとの危惧があろう。これは、ふたつ目の問題に関わる。すなわち、構造から自由なエイジェントが仮定されてしまっているという問題である。なぜ、それがエイジェンシーを人間行為の水準におき、エイジェントを集合体の水準に想定することによって解決されるかと言えば、そうすることで、エイジェントはエイジェンシーに「先行する」のではなく「事後的に」析出されるからである。言い換えれば、まずエイジェントがいてエイジェンシーがなされるというギデンズ流の論理を逆転させたとき、エイジェントの超越論的位相から脱することができる。なおかつ、ペンディングしていた「エイジェンシーを人間行為の水準においておく」という条件もクリアできる。

4.グローバリゼーション

最後に、具体的な事例としてグローバリゼーションを取り上げ、「エイジェンシーの集合体的な理解」の意義を確認してみたい。

グローバリゼーションは、学問上のみならず一般的にも、ここ十数年ほどのあいだに現代社会を語るうえで欠くことのできない語句として定着してきた。グローバリゼーションとは、言うまでもなく国家どうしの結びつきのみを表す「国際関係」(international)とは区別され、文字通り地球規模で人間、組織、文化その他が緊密に結びつくようになる事態を指し示している。すなわち、グローバリゼーションによって、人びとは国家を媒介にしてではなく、直接にグローバル社会に投げこまれることになる。なぜなら、グローバリゼーションの進展の結果、ギデンズの言葉を借りれば、国家や伝統的家族は「貝殻制度」(shell institution)と化して再構築を迫られるからである(Giddens 1999:18-9)。だからこそ、ギデンズはグローバリゼーションと自己アイデンティティを述べ(Giddens 1991)、ベックは個人化(individualization)について論じる(Beck and Beck-Gernsheim 2002)。

実際、グローバリゼーションはその反面で個人化を押し進め、「これまで、今日の欧米に広がっているほどに『あなた自身の生』へと向かうことが欲せられたことは、ほとんどない」と言われる(ibid.:23)。けれども、グローバリゼーションは個人化を単線的に押し進めるのではなく、「あなた自身の生」を問うという行為を経由することでエスニシティが再活性化され、ローカリゼーションを促進する。あるいは、同じようにして、地球上の各地に女性運動やエコロジー運動の波が広がっていく。

こうした現象がどのようにして起きるのかを捉えるうえで、エイジェンシー/エイジェントの概念は有益である。グローバリゼーションにともなって「あなた自身の生」がますます問われるようになるということは、「反省的モニタリング」がより一層強まっていくことを意味するであろう。しかし、そのことはグローバル社会の構造的特性を再生産することにのみ寄与するのではない。グローバル社会という単一社会に生きているわけではないからである。グローバリゼーションが進行中の過程であるならば、国民国家なり何なり、様々な集合体が共存する社会に人は生きているはずであるし、今後も人びとがグローバル社会だけの構成員になるとは考えにくい。であれば、エイジェンシー的実践が互いに対立したり、矛盾したりするような構造諸特性のあいだでなされることは明らかであろう。そのとき、エイジェンシーの「反省的モニタリング」という作用は、解決のために集合体の形成を促進していく。その一例として、グローバリゼーションが叫ばれるのとほぼ時をおなじくして形成されたNGO・NPOなどの行為者ネットワークを挙げることもできる。

構造化理論に限らず、ギデンズの社会理論が近代の診断学として大いなる有効性をもっていることは多くの人が認めるところである。エイジェンシーの集合的な理解は、近代という集合態のなかでのギデンズ理論の可能性をより広げていくことになるであろう。

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