「〈方法〉としての人間」による〈ヤヌス〉的課題の克服   [Microsoft Wordファイル:35kb]

尾形泰伸(武蔵大学大学院)

              

1.〈ヤヌス〉的課題に即して

「本書のアプローチは厳密には『社会の現象学』というより、やはり現象学的社会学なのである」(p.6,傍点は原著者:以下、特に断りがないものは原著者による)という序論を結ぶ一文は、本書における著者の立場をよりはっきりと宣言した箇所であると思われる。その含意は、もちろん本書全体を通して伝えられるところではあるが、著者自身による端的な解説を「『自己論』的視座とはなにかを明らかにした最初の論考」(p.182)でもある第6章「ノート」のなかに見ることができる。社会学は日常生活者の現実を「理解する目」をもち、同時に「科学」である以上、いかに出来事が生じたのかを「説明する目」をも併せもたなければならないという〈ヤヌス〉的課題を背負っている、と主張する箇所である(pp.174-6)1)。

まず、本書における物語の具体的分析のなかに、著者が自らに課した〈ヤヌス〉的課題を追っていくことにしよう。物語は、その「語りの構造」によって3つに分けられている。

(1)構造論

グリム童話「あかずきんちゃん」(第2章)および菊池寛「恩を返す話」(第3章)の分析では、構造論的な接近が試みられている。「『社会の状態』から『社会と自己』の問題を明らかにする接近方法」である(p.5)。

「あかずきんちゃん」は、共同体としての「むら」とカオスとしての自然の「もり」という構造からなる社会を舞台としている。そのなかで、あかずきんちゃんは両者の〈あいだ〉を往き来し、「もり」のなかで出来事に遭い、「ひとりで『もり』のわきみちにはいりこむようなことはしょうがい二度とすまい」という最後の言葉で物語が締めくくられる。社会の状態については、「むら」は「市場経済がいまだ発達せず、外部との交渉がまったく『閉ざされて』」おり、「むら」を囲む「『もり』との『あいだ』を往来する以外に、『生きる』すべを創り出すことができなかった」(pp.36-40)。そうした状態において、「むら文化」の正統性は「もり」という非正統性と表裏一体の関係にあり、あかずきんちゃんは非正統な「もり」での経験を経て「むらの住人」((非)自己)になることが明らかにされている。

「恩を返す話」における構造は、「場所」でも「時間」でもなく、〈出会い〉に求められている(p.54)。著者は、恩を与える者/恩を受ける者の関係において、それぞれが恩を口にしない/恩を返せないという「眼差しの交差」を捉え返す。前者(恩の与え手)の控えめな叙述を「地」として後者(恩の受け手)が「図」化され、受け手側の「恩返し」意識の3位相が析出される(pp.60-4)。

2つの物語は、あかずきんちゃんにおいてはマクロ的構造を、「恩を返す話」では出会いというミクロ的な構造を基点として接近されている。これらの物語を分析するなかで、著者は、あかずきんちゃんの言葉や恩の受け手の内的葛藤、彼女/彼らが出会った他者との関係に分け入りつつ、共同体の有り様、恩の構造を析出することで、〈ヤヌス〉的課題に接近しようとしているのではないか。

(2)行為論

デフォー『ロビンソン・クルーソー』(第4章)は、「〈わたくし〉の実際の体験として一人称単数の形式で綴られる伝記体の小説」(p.71)である。

『ロビンソン・クルーソー』は、よく知られているとおり冒険小説であるが、ほかにもさまざまな読み方がなされているという。まず、大塚久雄やマルクスによる構造論的な「読み」があり、「ロビンソン」を「経済的カテゴリーの人格化」としての人間とみなす読み方がなされている。また、ウェーバーは行為論的な「読み」をし、ロビンソンの行動の客観的な結果や経過が「その動機、理由や目的、あるいは理念など、ロビンソンの『主観的に思念された意味』」と関連づけられ、「同時に伝道もする孤立した経済人」として読まれる。

著者自身は、さらに「もうひとつの読み方」、「〈構成〉主義的に『読む』という読み方」を試みる。作者デフォーが採った一人称単数「わたくし」による語り形式は、〈第一階梯〉であるロビンソンの日常の意味世界に、作者・読者が寄り添うことを可能にする。同時に、「わたくし」の語りという形式が可能であることのなかに、著者は「〈個〉としての『わたくし』の存立」、ひいては「『新しい』『モダン』な精神への転換と移行を読み解き、〈ヤヌス〉的課題に応えていると思われる。

(3)自己論

「わたくし語り」の方法で書かれたドストエフスキーの『未成年』(第5章)は、著者がまとめているところによれば、種々の場面をつねに主人公の視座を基点として移動しながら、他者との会話・発話行為からなる「伝達」(全体の節の約7割[69.8%])や、自己の表現からなる「表現」(16%)の言説によって主に展開される(pp.119-23)。『未成年』が主人公アルカージイ青年の「意味構築」を中心に構成されていることの証左である。だが、著者は残りの、「ト書き」に対応する「叙述」(14%)の言説カテゴリーにも注意を向ける。すなわち、その「叙述」を、我−汝(Du)の直接世界を外皮する「類型化された現実」と見る(pp.125-9)のである。『未成年』はこれら3つの意味領域の「ゲシュタルトの転換」(p.135)、主人公の視点にもとづく「現実構成」の物語であるということが、浮き彫りにされる。

では、こうした手法によって描かれる「自己」そして「自己のなかの社会」とは、具体的にはどのようなものか。それは、「現代的・都会的・流動的都市空間での『社交』の可変性、重要な他者との偶然的な——頻発する不協和で多様な——触れ合いが「物語」の中心に据えられる」点で、第1に「親密性の境界」が「もっぱら『彼ら関係』の類型性によって識別」されるプレモダンとは異なり、第2に間主観的時間が(地平化ではなく)周辺化し、「自立した私的人格の自由」への明るい展望をもつ「ロビンソン物語」とも異なる(pp.140-1)。「自己について過度に『敏感である』」主人公、「多数の重要な他者たちとの『社交』の間主観的時間の恩恵に浴しながら……『過度に社会化された自己』」が析出されているのである(ibid.)。

『未成年』分析において、〈ヤヌス〉的課題は、「伝達」「表現」「叙述」を飛び移る主人公の目に寄り添いながら、「『未成年』期のパーソナリティにおける『両義的』な心性の分裂化傾向」(親密さを求めながら、他方で孤立をも求める)という「アイデンティティ問題」を説明することによって達せられる。

あらためて〈ヤヌス〉的課題における「理解する目」と「説明する目」を確認しておく。「理解する目」は、社会学者が〈日常〉をテーマとする限り「意識の立ち現れ」や「意味構成」を問題とし、文学者や画家の仕事と同じように、「『日常生活』という自動化した型どおりの習慣化した『信念体系』」を「異化」することで「ありありと行為者の内的世界と魂を浮き彫りに」することである(p.175)。

「科学」である以上社会学に要請される「説明する目」は、次のように解きほぐされる。「他者のからだと自分のからだが向き合う場としての『状況』のなかで起こる諸々の『出来事』の詳細な記述と分析、出来事の『因果連関』」を固有の主題とする社会学であり、すなわち「まなざしにおける『からだ・こころ・他者』の三幅対のうち『からだ−他者関係』の軸上に展開される『状況の社会学』」である(p.176)。

著者は、上述した3つの異なる「語りの構造」をとる物語を分析するなかで、適宜基点を移しながら、登場人物の現実を理解し、他者関係を説明しようと試みているように思われる。

 

2.ギデンズ構造化理論と〈ヤヌス〉的課題 

著者が所々で注意を促しているように、「自己のなかの社会」を描くという自己論的方法は、社会学的方法としての構造論(社会の状態の研究)、行為論(社会の状態のなかの自己の研究)とは異なるとされている(例えばp.4)。現象学的社会学によるアプローチ方法が、社会を「状態」としてではなく「現象」として捉えることを要請するからであろう。それゆえ、「自己のなかの社会」というコンセプトは、自己と社会の双方を射程に入れた「行為主体と社会構造」をセットにした理論とも合致しない。第5章で『未成年』における叙述形式を分析して見せたのち、同章の末尾で「図式的な単純化——例えば主人公の自我心理のダイナミズムと時代のアノミー的社会状態の、『行為主体と社会構造』の、制度論から行為論までの社会学的説明図式のバリエーション——に陥ることなく、……『未成年』の輻輳した現実を意味構成していること」(p.142)に意義を見出している。

しかしながら、「行為主体と社会構造」という理論枠組みのなかには、必ずしも社会を「状態」として捉えているとは言い切れないものもあろう。その1つとして、A・ギデンズの理論を挙げることができよう。以下、ギデンズ理論を参照することで、「自己のなかの社会」という方法の意義や疑問点を提出してみたい。

言うまでもなく、ギデンズは「自省性」(reflexivity)の概念によって広く知られている理論家である。その概念に代表されるギデンズの理論は、大雑把に言ってしまえば、自己、他者関係を「反省的」に注視できる人間行為主体(エージェント:仮託的に設定される)の自省性ゆえに自己や他者関係が(再)構築され、そうした実践の(意図せざる)結果として構造が生産・再生産される、という考え方を中心に据えたものである2)。

この基本的な考え方が示されたのが、「構造と行為主体」の相互媒介性/相互依存性を説く「構造化理論」である3)。そこでは、両者を不在/現前の関係にあると措定することで接合が試みられている。構造は「仮想的な時間−空間」にある「社会システム」(社会関係)の特性(properties)4)であり、行為者によって実践されるときにのみ現前化するとされる(Giddens 1979:66)。言い換えれば、ギデンズ理論において、構造は個々の行為主体、あるいは複数の行為主体のあいだでなされる(相互)実践によって「現象」するというわけである。したがってギデンズ理論は、単純には、「社会の状態の研究」とも「社会の状態のなかの自己の研究」とも言えないであろう5)。

ただし、行為主体の自省性は、はじめから構造の再生産を企図しているわけではない。むしろ、自省性はもっと身近な、ふるまいやコンテクストのモニターに関わっているのであって、構造再生産はその「意図せざる結果」にすぎない(Giddens 1984:5)。実践行為は、自己や他者関係の現象でありながら、同時に社会の現象でもあるのだ。

もっと具体的な例に即して述べてみよう。『親密性の変容』(1992)のなかで、ギデンズはアルコール中毒、セックス中毒といった「嗜癖」(addiction)の問題を取り上げる。「昨日したことを今日するのが当たり前であるような伝統的文化において、『嗜癖』という考えはほとんど意味をなさない」(Giddens 1992:75)が、今日では毎日同じことを繰り返さずにはいられないような状態を「嗜癖」とみなす。なぜなら、「自己という自省的プロジェクトの点で、嗜癖は選択に対置されるふるまいである」(ibid.:77)からだ。したがって、「嗜癖は、後期近代において自己という自省的プロジェクトが舞台の中央に移動してきたことの負の指標である」(ibid.:75)。ここで言われているのは、「自己という自省的プロジェクト」、あるいはその失敗としての「嗜癖」が「高度に自省的な社会」を鏡映しにしているということである。

やや長くなったが、ギデンズ理論をふまえ、論点を提示しておきたい。実践行為による「現象」を考えたとき、自己も構造も、ともに実践行為によって「現象する」と言えよう。だとすれば、自己論と行為論、構造論はそれぞれが他の二者を媒介する(p.184:自己論を媒介に行為論と構造論が、構造論を媒介にして行為論と自己論が、自己論を媒介にして行為論と構造論が反転しあう)という並列的な関係にあるのではなく、むしろ「行為論が媒介となって構造論と自己論が反転しあう」関係がより基底的な位置にあるのではないだろうか。

 

3.テクスト解釈と時間・空間 

「わたくし」という一人称単数による語りの構造をとる物語には、複数の「わたくし」がいる。物語の主人公である「わたくし」、物語の作者である「わたくし」、物語を読むなかで自らを主人公に重ね合わせる「わたくし」、という3人の「わたくし」である。著者は、「わたくし」の語りという方法がこれら3者の「共同の意味構築」を可能にすると言う(p.92)。『〈方法〉としての人間と文化』からも引いておけば、「著者のデフォー、主人公のロビンソンそれに読者という3者が1つの定点(いわば三幅対の中心点——原著者)に重なりあって立つような『語り方』、したがって『読み方』の創出である。『間主観的』視点の創出といってもよい」(佐藤編 2004:55)。つまり、物語を語る「わたくし」は、3者の「間主観的」視点を可能にする「〈方法〉としての人間」であると。

しかし、なぜそのように言えるのだろうか? 翻訳の問題は措くとしても、著者にとっての『ロビンソン・クルーソー』と、読者にとっての『ロビンソン・クルーソー』は、同じ物語であろうか? 著者が託した「ロビンソン」と、読者が自らを重ねあわせる「ロビンソン」は同じ人物であろうか? 著者と読者のあいだに横たわる時間と空間の隔たりが問題になると思われる。評者なりの考えを示しておこう

まず空間的な側面を考えるために、時間次元を操作し、読者は作者デフォーと同時代に『ロビンソン・クルーソー』を読むと仮定しよう。読者にとって作者は、作者にとって読者は「共時世界」の他者である。この「共時世界」においては、互いに類型的な他者(「読者」「作者」)として現れるにすぎないような空間的な隔たりがあり、両者にとっての「ロビンソン」が同一人物であるという保証はない。さらに彼らが「直接世界」を構成しているならば、どうか。「直接世界」においても、厳密に言えば、わたくしの視座は他者の視座とぴったりと重ね合わせることはできないはずであり、それは読者と作者にとっても同じであるはずだ。目のパースペクティブに依拠せざるをえない以上、空間を共にすることには難問がつきまとう。だが、時間的な側面においては、読者と作者のあいだで時間を共有することが可能である。

ひとつは、客観的時間の共有であり、「共時的世界」であれば「同じ時間を過ごしている」という意識をもつことは可能であるし、時計時間が成立しているような場合にはなおさらである。つまり、客観的時間と同じように、書かれたテクストは、読者にとっても著者にとっても客観的なテクストとして共有されうるであろう。だが、「わたくし」の物語といっても、必ずしも「間主観的」視点が創られるわけではなく、客観的なテクストとして「開かれている」。ときに大塚やマルクスのような構造論的な「読み」、あるいはヴェーバーによる行為論的な「読み」が可能なのは、次に述べる内的時間の重なりではなく、作者の手を離れた客観的なテクストとしての物語が読まれるときであろう。

もうひとつは、内的時間の共有であろう。一方で、読者の「物語を読む」という持続的な時間経験が主人公の冒険という持続する時間と重なり、他方、作者の「物語を書く」という持続的な時間経験が主人公の冒険という持続する時間に重なる。物語を語る「わたくし」の時間流に、読者と作者がそれぞれ時間経験を重なりあわせることで、それは結果的に「1つの定点」となる。おそらく、この時間経験の重なりをもとに、3者の「共同の意味構築」が論定されるのだろう。著者は言う、「『ロビンソン・クルーソー』を読むということはデフォーの『いま・ここ・わたくし』の時間の時間化、歴史化の『所産』を、あべこべに『いま・ここ・わたくし』へと現在化し、時間化する『行為』に他ならない。『わたくし』の『歴史』を再び『生きる』ことである」(p.94)。

文献
Giddens, Anthony,
1979, Central Problems in Social Theory , Univ. of California Press.
1984, The Constitution of Society, Polity Press.
1992, The Transformation of Intimacy, Polity Press.
張江洋直,
2002,「奇妙な〈棲み分け〉の背後へ——実証主義から現象学へ」『年報社会科学基礎論研究』第1号,ハーベスト社.
井出裕久・張江洋直,
1998,「方法と客観性」西原他編『現象学的社会学は何を問うのか』勁草書房.
佐藤嘉一,
2004a,「社会変動とヴェーバー社会学の誕生」『年報社会科学基礎論研究』第3号,ハーベスト社.
2004b,『物語における社会とアイデンティティ』晃洋書房.
佐藤嘉一編,
2004,『〈方法〉としての人間と文化』ミネルヴァ書房.
Weber, Max,
1921[1966], “Soziologische Grundbegriffe”, Wirtschaft und Gesellschaft, 4, J.C.B.Mohr (Paul Siebeck) Tubingen, S.1-30.(=1987,阿閉吉男・内藤莞爾訳『社会学の基礎概念』恒星社厚生閣.)
※合評会対象本(佐藤 2004b)については、本文中ではページ数のみ表記した。           
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