「私」はどこにいるのか? ──佐藤嘉一『物語の中の社会とアイデンティティ』を読む──   [Microsoft Wordファイル:29kb]

浅野智彦(東京学芸大学)

              

0、はじめに

本書は、現象学的社会学研究の第一人者である著者が、その理論的成果を具体的な素材において吟味する試みである。シュッツとの出会い以来の著者の学的蓄積がこの生き生きとした応用を可能にしており、その意味で本書は現象学的社会学の視座からするすぐれて臨床的な試みであると言うこともできるだろう(佐藤[2003])。

本書における著者の問題設定はきわめて明確である。すなわち、構造論的アプローチと行為論的アプローチに対して、自己論的アプローチを提起し、ウロボロスのごとき全体把握を目指すこと、これである。著者のみるところ、長い間(おそらく現在でも)社会学は、構造論と行為論との二項対立によって暗黙の内にその思考の形式をしばられてきたのであるが、自己論的アプローチはこの二つのいずれにも解消し得ない固有の方法として提示されている。

本書評では、この固有の方法である自己論に着目し、それが本書のタイトルにも含まれている「物語」とどのような関係にあるのかを検討してみたい。

 

1、構造・行為・自己

構造論、行為論に対して自己論を打ち出すという構図が最もはっきりしているのは、おそらく第四章であるから、まずはここに着目する。著者は、構造論的アプローチをマルクスによって、行為論的アプローチをウェーバーによってそれぞれ代表させた上で、その意義と限界を指摘する。意義とは、この読み方が一種の単純化によって有用な概念(マルクスにおける「価値」およびウェーバーにおける「行為」)を産出したことであるが、その単純化は同時にそのような読み方の限界ともなっている。

これに対して著者は第三の読み方を提起するのであるが、おそらくこの読み方が自己論的アプローチの中核をなすものである。その要点を引用してみる。

「それは一つに、デフォーにおける『一人称単数わたくしの語り』形式の採用であり、二つに、『日記』スタイルによる叙述形式の採用である。」(89、以下数字のみの場合は、本書の頁を示す)

まず「わたしくの語り」という形式は、ウェーバーの「意味」概念が「第二階梯」のものであるのに対して、いわば「第一階梯」の意味を構成する。すなわち、観察者による再構成ではなく、当事者自身の構成によりそって描き出しあるいは読み取ること、これが第一のポイントである。次に「日記」という文体の特徴は、自己の経験を過去に位置づける点にある。それは「わたくし」の体験を<歴史化>するものであり、「『私人』の『小さな歴史』」を可能にする文体であった(93-94)。これが第二のポイントである。

してみると、構造と行為のいずれにも解消されない独自のアプローチとしての自己論とは、視点の取り方と文体のあり方によってまずは定義されるものと考えられる。この方法は、第五章でドストエフスキーを読み直す際にもはっきりと貫かれている。

 

2、語りの世界と物語領域

以上のことを踏まえた上で、しかし、ここでは著者の次のような指摘に耳を傾けてみたいのである。

「デフォーは、独特の方法論によって『ロビンソンの意味世界』を構築する。著者のデフォー、主人公の『ロビンソン』それに読者という三者が、いわば一つの定点に重なりあって立つような『語り方』、従って『読み方』の創出である。」(89)

ここには三種類の行為者が登場する。著者、主人公、そして読者である。とするとここには二つの語りの領域が存在することになりはしないか。すなわち主人公が日記という文体を用いて自らを語る領域と、著者が日記という文体を用いた作品によって読者へと語る領域と。この二つを、キャサリン・ヤングの言葉を用いてそれぞれ「語りの世界 taleworld」と「物語領域 storyrealm」と名付けておこう(Young[1987])。

語りの世界:主人公の所属する世界
物語領域:作者と読者の所属する世界

実は、日記という文体は、語りの世界における語りの形式であるだけではなく、物語領域においても採用された形式であった。実際、17世紀は多くの人びとが日記をつけるようになった時代であり、また体験の歴史化という観点から言えば、自伝の執筆が広範に普及した時代でもある(Delaney[1969])。

そしてロビンソンについて著者が指摘するように「小さな歴史」を生きるような自己のあり方が独特の文体によって生み出されるものであるとすれば、ロビンソンのみならず読者たちについても同じことが言えるのではないか。つまり、読者たちの自己もまた独特の文体によって構成されるのと言うべきではないだろうか。だとすれば、自己論的アプローチは二つの焦点をもつことになるのではないか。一方においては本書のタイトルにある通り「物語のなかの」アイデンティティの探求、すなわち語りの世界における自己の視点と文体の探求。他方においては、その物語を通して構成される作者および読者たちのアイデンティティの探求、すなわち物語領域における自己の視点と文体の探求。この二つである。

語りの世界 :文体と視点 主人公の自己構成
物語領域 :文体と視点 作者・読者の自己構成

著者は第四章の最後の部分で次のように書いている。

「私人が『固有の社会的カテゴリー』として存立しうる社会の到来。この社会の構造転換の歴史と共に『私人』の『小さな歴史』も始まる。」(94)

もし上の見地を徹底させるならば(そしてそれは著者の見地を徹底させることでもあるように評者には思われるのであるが)これは以下のように書き換えられるべきである。私人が「固有の社会的カテゴリー」として語られうる文体の到来。この文体の構造転換の歴史と共に「私人」の「小さな歴史」も始まる。この文体が物語領域においてロビンソンを産み、語りの世界において近代的な自己をそなえた人びとを生み出した、と。

 

3、二つの自己構成

語りの世界と物語領域とを区別することの重要性は、第五章をみることでよりはっきりと理解することができる。先にも触れたように、第四章のアプローチを著者は第五章でも一貫して用いているのであるが、そこにおいて第四章では潜在化していた問題が顕在化してくるからである。

『未成年』を書くにあたってドストエフスキーは「自然的態度の現象学」を自らの方法として採用していると著者は指摘する。「この小説はその構えにおいて『自然的態度の現象学』の立場、人間理解の方法としての『個人本位の方法』(マックス・ウェーバー)が貫徹される」(112)と。この構えと方法にもとづいて、身体・精神・他者の関係、伝達・表現・叙述の配置、直接世界への内在とそこからの超越などが慎重に計画される。そのような計画にもとづいて採用された文体と視点を「文体と視点a」としておこう。

この「文体と視点a」は作者が主人公の自己を構成するために採用するものであって、読者と作者が自らの自己を構成するために採用するものではない。実際ドストエフスキーはこの作品を書くときにはアノミーを観察する位置からそれを行なっているのであって、それを生きているわけではない。とすると、

語りの世界 :文体と視点a 主人公の自己構成
物語領域 :文体と視点b 作者・読者の自己構成

という対比において、「文体と視点a」と「文体と視点b」とは別のものであるということになる。そして第五章では「文体と視点a」の探求と解明が行なわれてはいるが「文体と視点b」については触れられていないのではないか。

『ロビンソン』の場合、二つの「文体と視点」は事実上一致していた。だから「文体と視点a」の探求が同時に「文体と視点b」のそれでもあり得たのである。『未成年』の場合、この一致は崩れてしまっている。同じ「わたくし語り」でありながら『ロビンソン』と『未成年』の間に違いがあるとしたらそれはおそらくこの二つの「文体と視点」の間の関係に由来するものである。この章の終りの部分で著者は次のように書いている。

「『未成年』は・・・『ロビンソン物語』における『自律した私的人格の自由』という物語への明るい展望をもたない。」(141)

明るい展望をもたないのは、「文体と視点a」と「文体と視点b」との落差のためではないか。言い換えれば、読者が日常生活において自己を構成する際に用いる「文体と視点b」は、自らのうちにはらまれた苦痛の由来を明らかにしうるようなもの(「文体と視点a」)ではないがゆえに暗いのではないか(ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実)。

自己論的アプローチが二つの焦点を持つものであるとしたら、この「文体と視点b」のあり方も問題化されるべきである。すなわち「引き裂かれた自己」(141)は、物語領域においてはどのような形式によって物語られているのであろうか、また、その語りはドストエフスキーの語り(「文体と視点a」)によってどのようなインパクトを受けることになるのだろうか、と(例えば両者の関係はドミナントストーリーとオールタナティヴストーリーとの関係に類比的であるのか)。

 

4、自己物語論の課題

以上のことを踏まえると、著者の次の言葉を異なった角度から読み直すことができるように思われる。

「『わたくし』が語ることと『「『わたくし』が語ること」の方法』とは、くどいようだが根本的に異なるものではないか。」(88)

「『わたくし』が語ること」が「文体と視点b」に対応するとすれば『「『わたくし』が語ること」の方法』とは「文体と視点a」に対応する。両者はまさに「根本的に異なる」のであり、それゆえ物語において自己を捉えようとする試みはつねに二つの焦点をもたざるを得ないのである。

【文献】
佐藤嘉一、
2003、「『出会い』とわたくしのアルフレッド・シュッツ研究」、『立命館産業社会論集』39-1
Delany,P.,
1969, British Autobiography in the 17th Century, Routledge
Young,K.,
1987, Taleworlds and Storyrealms:The Phenomenology of Narrative, Martinus Nijhoff
          
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