はじめに
日本の社会学界において自覚的にライフヒストリー・アプローチが導入されたのは、中野卓による『口述の生活史』(1977年、御茶の水書房)公刊と、第53回日本社会学会大会における会長講演「個人の社会学的研究について」(1980年、翌1981年『社会学評論』誌に「個人の社会学的調査研究」として収録される)を契機としている。
商家同族団の研究など、人々を連結させる家連合=社会組織の研究から、社会組織を積極的に改変し、主体的に生活構造を革新させる具体的個人の存在をクローズアップさせたことは中野の大きな成果の一つといえる(2)。
宗教研究において個人史研究は、教祖研究の領域で導入されてきた経緯がある。各教団・宗派の教祖・宗祖の個人史が、宗教運動の発生を決定づけ、フォロワー達の人生と形成される宗教集団の性格に大きく影響を与えることは多くの研究が明らかにしたところである(3)。
社会学的研究視座と宗教学的研究視座とが結節する宗教社会学においては、宗教組織を構成する具体的個人の研究にライフヒストリー・アプローチは適用される(4)。その対象は、教祖、中間指導者、あるいは末端信者であっても、宗教がどのように意味ある現実として思念されており、どのように思考・行為・態度を規定し、その了解は再生産されているのか、といった課題群に対し、主観的経験世界へ照準化しながら接近するのがこのアプローチの大きな特色である。
中野の嚆矢に後続する形で、宗教社会学の領域においても1980年代半ばからライフヒストリー研究の成果が提出されてきた(5)。教義・組織・儀礼などの研究成果と比べて決して多いとは言えないが、調査研究に基づく実証的な成果が蓄積され、また、その中から幾つかの課題群も浮上してきたように思われる。
1,ライフヒストリーの可変性と資料的価値
ライフヒストリー・アプローチは、1-1文献資料から対象に接近するやり方と2-1口述資料によって対象に接近するやり方とに大別される。その中間に1-2文献資料を口述で補う、あるいは2-2口述資料を文献で補う、というやり方が存在する。これまで多くの成果が提出されてきた教祖研究は、ほぼ1-1、1-2のやり方に依っている。教祖自身あるいは関係者によって記された文献資料を渉猟し、資料批判を経て分析・解釈が加えられる。他方、フォロワーを対象とした研究(=信者研究)においては、教団刊行物に掲載された体験記を資料とする1-1の経路と、インタビュー・データに大きく依拠する2-1、あるいは2-2のやり方とに分岐が見られる(6)。
筆者の実践は、上記の2-2に該当する。インタビューにおいて語られた主観的現実と、文献資料によって照合される社会的・歴史的現実とを総合する形で具体的個人の経験世界に接近し、ライフヒストリー作品を編んでいる。こういった経路は、このアプローチにおいて標準的な実践であり、決して特異なものではない。
しかしながら特定個人の語りを主たるデータとして研究を進めるやり方に対しては、幾つかの批判が想定される。思いつくまま列挙しても[1]語り手の実際の体験Erlebnisと、想起された体験Erfahrung(=経験experience)の差異の問題(7)、[2]語り手の実際の体験、あるいは想起された体験(=経験)と、語られる経験experience as toldの差異の問題(8)[3]語り手の言語的資源、あるいは会話能力による、経験の表現の制約の問題(9)、?語り手と聞き手の関係性(権力性)に付随する語りの主題の被規定性の問題(10)、等が挙げられる。なお、こういった批判が浮上する背景には、語られる内容が変化していく側面、つまり、語りの可変性をどう評価するか、という問題が介在している。換言すれば、記された時点において確定し、固定化される不変的存在としての文字資料と、語られる時点でのみ存在し、幾通りにでも語られうるヴァリエーションを内包する可変的存在としての語りを、等価に歴史的現実を表象する資料として取り扱うことが可能か、という問題である。文字資料は、テキストという地平において他のテキストと比較・検討され、そのデータとしての信頼性reliability(同じような結果が得られる程度)は保証される。しかし、語りに関しては、その信頼性は如何に保証されるのか。この問いはあまり主題化されていないように思われるが、回心、あるいは神秘体験、超常現象に纏わる語りを分析対象に内包している宗教研究においては極めて重要な意味を持っている。
質的調査における信頼性に関しては、カークとミラーが、ドンキホーテ的quixotic信頼性、共時的synchronic信頼性、通時的diachronic 信頼性という三つの基準を提出している(11)。ドンキホーテ的信頼性とは、ある方法によって全く同じデータがいつでも得られるか、共時的信頼性とは、異なったデータ収集のツールを用いた場合に測定や観察の結果が一貫しているか、通時的信頼性とは、ある現象の測定結果や観察が時間経過の中で安定しているか、を指している(12)。カークとミラーは、ドンキホーテ的信頼性の基準を否定しているが、質的調査においては、共時的・通時的信頼性の基準が満たされないケースも往々にして存在することを指摘している。かれらは、フィールドノートの標準化と公表化(=データの監査)を一つの回答とする議論を提出している(13)。
ナラティヴ・データの処理方法に議論を特化すると、とりあえず二つの回答が用意されている。一つは、一回起的な語りに照準を定め、そこにおける語られ方を積極的に主題化し、リアリティの認知様式をインタビューの場(相互行為)の構築物として措定し、研究を進める、いわばライフヒストリー研究の目的を転回させるやり方でその意義を定置する回答である。これを桜井厚は「対話的構築主義」の立場に立つライフストーリー・アプローチとして定置し、従来の実証主義の立場に対置させている(14)。他方は、数々の語りのヴァリエーションと可変性を考慮に入れつつ、息の長い調査の中から相対的に不変な内容を抽出し、そこに一定の資料的価値を確定していこうとする、従来型の実証的思惟を補強する回答である15)。
本稿は、後者の立場に立って、その手続き論的な議論を展開するものである。ライフヒストリーは、事実的領域に関する語りと意味的領域に関する語りを統合して編み出される。筆者は、文献資料と口述資料にはそれぞれ固有の価値が存在すると考えており、また、息の長い調査を行い、聞き取りを繰り返す研究作業には特有の価値があると考えている(16)。本研究は、インタビューの場における語りのヴァリエーションとその解釈の妥当性をめぐって、単独のインタビューと複数名が同席した場における会話の内容との差異の問題に焦点を当て、口述生活史の資料論に考察を加えたい(17)。語る相手によって語られる内容が変化するのであれば、作品化されたライフヒストリーの信頼性は、如何に主張することが可能であるのか、この問題を考えてみたい。
《以下は報告者の要請により省略》
註
(1) 本稿は、拙稿2004「ライフヒストリーと信頼性」『東洋大学大学院紀要(社会学研究科)』40号、並びに2005年IAHR国際宗教学宗教史会議で発表した「語りのコンテクストとライフヒストリー作品」において展開した議論を加筆・修正したものである。なお、この論文は、日本宗教学会第61回学術大会におけるテーマセッション「ライフヒストリーと宗教研究」において発表した「語りとライフヒストリー」が原型となっている(『宗教研究』335号、2003所収)。併せて参照されたい。
(2) 日本の社会学におけるライフヒストリー・アプローチの導入の経緯、展開については、桜井厚1982「社会学における研究史」『南山短期大学紀要』10、有末賢1983「生活史研究の視覚」『慶應義塾創立125年記念論文集法学部政治学関係』、水野節夫1986「生活史研究とその多様な展開」宮島喬編『社会学の歴史的展開』サイエンス社、中野卓・桜井厚編1995『ライフヒストリーの社会学』弘文堂等を参照のこと。
(3) 日本の宗教学の中でも特に宗教社会学的な研究において大きな成果をあげたのは新宗教研究の領域である。井上順孝・孝本貢・塩谷政憲・島薗進・対馬路人・西山茂・吉原和夫・渡辺雅子1981『新宗教研究調査ハンドブック』雄山閣、井上順孝・孝本貢・対馬路人・中牧弘允・西山茂編1990『新宗教事典』弘文堂において教祖研究の成果が総括されている。
(4) 宗教社会学におけるライフヒストリー法の成果を網羅的に検討した川又俊則2002『ライフヒストリー研究の基礎』を参照のこと。
(5) 早い時期からライフヒストリー・アプローチを採用した宗教社会学研究者として渡辺雅子、磯岡哲也等が挙げられる。また周辺分野では前山隆(人類学)、作道信介(心理学)等の名も挙げられる。なお、研究史については前掲[川又2002]を参照のこと。
(6) 日本における宗教社会学と新宗教研究の研究史は、拙稿2000「20世紀における日本の宗教社会学」大谷栄一・川又俊則・菊池裕生編『構築される信念』ハーベスト社、西山茂2005「日本の新宗教研究と宗教社会学の百年」『宗教研究』343号等を参照のこと。なお、体験談の研究史については、拙稿2000「新宗教研究における体験談の研究史」『東洋大学大学院紀要(社会学研究科)』36号を参照のこと。
(7) この用語とその差異についてはSchutz, A 1932 Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt, Spinger.(=1982佐藤嘉一訳『社会的世界の意味構成』木鐸社)を参照。Bruner, E. M. 1984 Text, Play and Story: The Construction and Reconstruction of Self and Society, Waveland Pressにおける"life as lived"と"life as experienced"は、それぞれ体験Erlebnis(英訳では"Subjective experience"あるいは"lived experience")、経験Erfahrung(英訳ではexperience)に対応すると思われる。
(8) トラウマ体験等を想起されたい。近年の議論としては、浅野智彦2001『自己への物語論的接近』勁草書房、同2003「物語と<語りえないもの>」『年報社会科学基礎論研究』2号、ハーベスト社等を参照のこと。
(9) 周知のように人間は言語の枠内でしか思考し得ず、外界からの様々な情報・刺激は言語を媒介して有意味な経験として認知される、とする立場の議論もある。古典的な成果としてWhorf, B.L. 1956 Language, Thought and Reality. New York、Benveniste, E. 1966 Problemes de linguistique general, Paris.(=1983河村正夫・木下光一・高塚洋太郎・花輪光・矢島猷三訳『一般言語学の諸問題』みすず書房)等が挙げられる。
(10) Foucault, M. 1980 Power/Knowlege. New York Pantheon Books.の議論を参照されたい。
(11) Kirk, J. L. and Miller, M. 1986 Reliability and Validity in Qualitative Research. Beverley Hills: Sage.
(12) Silverman, D 1993 Interpreting Qualitative Data: Method for Analysing Talk, Text and interaction, Sage Publications、Frick, U. 1995 Qualitative Forschung. Ronwohlt Taschenbuch Verlag GmbH.(=2002小田博志・山本則子・春日常・宮地尚子訳『質的研究入門』春秋社)の議論も参照のこと。
(13) フィールドノートの標準化、並びに公表化に関しては、Spradley, J. P. 1979 The Ethnogrphic Interview. New York: Holt, Rinehart & Winston. の議論を参照のこと。
(14) 桜井厚2002『インタビューの社会学』せりか書房
(15) 桜井と同じくライフストーリーというタームで自身の研究法を位置づけるBertaux, D. 1997 Les Recits de Vie, Editions Nathan.(=2003小林多寿子訳『ライフストーリー』ミネルヴァ書房)は後者の立場に立っているように思われる。
(16) Plummer, K. 1983 Documents of Life, An Introduction to the Problems and Literature of a Humanistic Method. London George Allen&Unwin Ltd.(=1991原田勝弘・川合隆男・下田平裕身監訳『生活記録の社会学』光生館)の議論を念頭に置いている。
(17) 既にこの問題系に論及した論考には、中野・桜井編前掲書の小林多寿子論文、大出春江論文、川又前掲書(特にpp.37-66.)、有末賢2000「生活史調査の意味論」『法学研究(慶應義塾大学法学研究会)』73-5、Silverman, ibid.、Rubin, H.J. and Rubin, I.S. 1995 Qualitative interviewing: the Art of hearing Dara, Sage Publications等が挙げられる。本研究は、議論の精緻化を目指して理論的・体系的にこの問題を論じるのではなく、理論的関心から出発した経験研究からライフヒストリーの資料論に検討を加える立場に立つ。その意味で、ライフヒストリーの資料論への基礎研究という位置づけになる。