はじめに
周知のように、A.シュッツは、その主著『社会的世界の意味的構成』(1932)以来基本的には、私たちが住まう社会的世界の様態を「われわれ関係」を基点にして、他者およびそれと相関する社会的世界の現われの相貌を、直接世界=共在者(汝)→同時世界=同時代者→[前世界=先行者—後世界=後続者]の現出論として語っている。本報告では、まず、こうしたシュッツ社会的世界論が志向変容による「社会的世界の現出論」であることを確認しつつ、その理論的な基点とされる「われわれ関係」の基柢的な必須要件とされる「汝定位」における“Dasein”に着目する。シュッツは、「純粋な汝定位はその本性からしてもっぱら汝の現存在(Dasein)一般に関係するに過ぎず、汝の特殊な相存在(Sosein)には関係していない」と指摘する。この論点はかつてB.ヴァルデンフェルスによって「空虚な事実」と批判され、そこからシュッツが呈示する「他我の一般定立」に替えて「われわれの一般定立」が措定されている。だが、この批判は、はたして妥当なものなのだろうか。
本報告では、シュッツが論定する“Dasein”という(純粋な)汝への志向性がどのような事態を指示するのかを、松尾正(1987;1992)を手がかりに再考する。そこにおいて、「他者問題」を巡るシュッツ的な途とは何かを明示化したいと考えている。なお、本報告の理路の要諦は一貫して志向性の分析・吟味に置かれている。その限りでいえば、最後に、シュッツ社会学の継承と展開として《志向性の社会学》の可能性にも触れたいとおもう。
1.他者=社会的世界の現出論と“Dasein”
シュッツは初期の『社会的世界の意味構成』[Schutz,1932=1982/以降『構成』と略記]以来、基本的にM.ヴェーバーの理念型に定位しつつ、意味の本源性を確保する「社会的直接世界」からはじまり、より類型的な経験の相である「同時世界」や、さらに匿名的な理念化がすすむ「前世界」・「後世界」への推移を一貫して〈志向性の変容分析〉として遂行し、それを基礎として社会科学方法論を呈示していると考えることができる。こうした社会的世界を分節化させるのが、他者への態度あるいは志向変容である。
シュッツは他者に向けられる志向性を「他者定位(Fremdeinstellung)」[ibid.,207=203]と呼び、それをさらに「汝定位(Dueinstellung)」[ibid.,228=224]「かれら定位(Ihreinstellung)」[ibid.,255=253]と分類する。前者に対応する志向的相関者が「汝=共在者」であり、後者の相関者は「同時代者」「先行者」「後続者」[Schutz,1962:15-16=1983:64]へと細分化される。とはいえ、シュッツにとって特権的な存在者は一貫して「私と時間だけでなく空間をも共有している……共在者」[ibid.65]である。ここではまず、こうした記述を可能とするための理論的な地平を形成する、シュッツの理論的な立脚点を確認しておきたい。周知のように、かれは自らの学的立場をフッサールの『イデーン?』の「あとがき」に倣い「自然的態度の構成的現象学」[Schutz,1932;56=60]とする。
私たちが分析しようとする対象は、自然的態度の内側から世界を眺める人間である。彼は社会的世界のなかに生まれ、同胞の存在も他のあらゆる自然的世界の対象の存在も同じように、これを疑問の余地のないものとして受け入れている。……汝もまた意識一般をもつこと、それが持続すること、汝の体験流は私のそれと全く同じ原形式を示していること……。[ibid.:138=136]
シュッツの主著『構成』は、「予備的考察」からはじまり「自己自身の持続における有意味的な体験の構成」「他者理解の理論の大要」「社会的世界の構造分析」「理論社会学の根本問題」から成っている。その中心は第4章の「社会的世界の構造分析」にある。そこでの分析を可能とする理論地平を形成するために第3章「他者理解の理論の大要」があり、その地平を形成するために第2章「自己自身の持続における有意味的な体験の構成」が措定されている。では、「社会的世界の構造分析」をそれとして可能とする理論的地平とは何か。それを端的に、「他者問題」あるいはそれへの応答ということができる。だが、この問題の輪郭を確認するのは後論に委ね、ここではそれを《私たちが他者の「自己」を明証的に確信する根拠とは何か》と捉えることをもって留め、自然的態度において「共在者」はどのような意味をもつのかを確認したい。「社会的世界の構造分析」の「社会的直接世界」の最初に位置する「第33節 社会的直接世界とわれわれ関係」の冒頭を確認しておこう。
ある汝が私と時間的にも空間的にも共在している場合、その汝について私は、汝が私の社会的直接世界に属しているという。……したがって直接世界的な状況は……他我の一般定立で明らかにしたように、他者の持続経過と自己自身の持続経過との純粋な同時性において基礎づけられている。[ibid.:227-228=224]
汝が私と空間的に共在しているとは、私が汝を「全身的に」、しかもその人自身として、この独自の汝として体験しており、また汝の身体をこの汝の豊かな諸徴候の表現の場として体験しているということを意味する。汝が私と時間的に共在しているとは、私が純粋な同時性において汝の意識経過に眼差しを向けることができること、汝の持続が私の持続と同時であること、私たちが一緒に年をとることを意味している。[ibid.]
「他者問題」におけるシュッツの独創性は、我と汝が「一緒に年をとること」への着眼にある。「私は、私の固有の体験を経過し生成してしまった体験として目を向けることができるだけなのに、他者の体験については実際の経過を眺めることができる……。これは、汝と私とはある特殊な意味で「同時的」であること、両者は「共存する」こと、私の持続と汝の持続とは「交叉する」ことに他ならない」[ibid.:143=141]。シュッツは「他者の意識の流れについてのこうした体験のこと」[Schutz,1962:174=1983:267]を「他我の一般定立(Generalthesis des alter ego/general thesis of the alter ego)」とし、その妥当性を一貫して主張している。くわえて留意すべきは、他者の身体の現前に対する相互の明証的な確信への指摘である。つまり、自我と他我の「2つの持続が同時的であることを論じる際に見逃すことのできない点は、私たちが素朴な自然的な世界観によって自己の体験流や他者の体験流に(現象学的還元を行なわずに)注目するときには、必ず自我と他我を、精神物理的統一体として受け止めているということである」[Schutz 1932.:144=142]。
このシュッツの記述は同義反復といってもよいかもしれない。というのも、目覚めた成人である私たちが、他者と時空的に「共在」している場合、その他者はむろん「汝」として私に現れている。そのさい、「汝」が精神物理的統一体であるとする確信は、まさに端的に直観的であって、このこと自体にはまったく多言を要さないだろう。だが、ここで私たちの関心が焦点化したいのは、シュッツの記述においてこの「精神物理的統一体」である「汝」が如何なるものとして描かれているのかにある。
汝がある自己として体験される前述定的経験が問題なのである。したがって直接世界的な汝定位とは私がそこで生活するかぎり、私がある汝の現存在(Dasein)を本来の自己という様相において経験する特殊な志向作用のことであると定義できる。……本来の自己という様相におけるすべての外的経験は、経験されるものが時間と空間の直接性のなかで全身的に予め与えられていることを前提にしている。[ibid.:228=225]
私たちがみるかぎり、シュッツが示す「同時性」概念の最も特異な中心点は、この“Dasein”に置かれている。というのも、「同時性」に関する記述は、未だ〈具体相〉に留まっている印象が強いからである。この点を別様にいい換えてみよう。もし呈示される論点が〈具体相〉から脱却あるいは離脱できていないならば、その論点は謂わば個別性に錨泊されたままであり、それゆえ、それは自らが必然的に内包しているある一定の普遍妥当性の要請を充実へと向けて確保しえていないといわなければならないだろう。シュッツが「純粋な」汝定位へと自らの理路をすすめる必然性はここにあるといってよい。つまり、シュッツが示す「同時性」の要諦は“Dasein”にあるといえよう。 では、ここでシュッツがいう「現存在(Dasein)」とは如何なる事態を指示するのだろうか。周知のように、この用語はM.ハイデガーの『存在と時間』以来、ある特異な了解を伴って理解されてきたといえるだろう。だが、ここでシュッツは、ハイデガーを示唆せず、それゆえ、よりオーソドックスな用語法に立脚している。
この純粋な汝定位はその本性からしてもっぱら汝の現存在(Dasein)一般に関係するにすぎず、汝の特殊な相在(Sosein)には関係していない。私たちがみずからを現に存在するものとして、しかも相互に向き合っているものとして本来経験しているということが、既に純粋なわれわれ関係を構成しているのである。[ibid.:233=230]
かつて私たちはこの点を次のように論定した。「ここでDaseinとSoseinは,一対として用いられている。通常の存在論的用語法に基づくならば,前者が一般にあること,〈……がある〉を示し,後者は或る一定の性質及びそれを持つ存在,〈……である〉,〈かくある〉を示すものと理解することができる。そして,私達が見る限り、シュッツはDaseinとSoseinに関して彼独自の定義あるいは用法を特に提示していない。それ故通常の用語法に従い,シュッツにとって汝定位とは,〈他者存在がそこに=現に存在する〉を意味すると結論づけることができる」[張江,1985:111]。この論定において準拠したのがB.ヴァルデンフェルスの所説である。かれのシュッツ批判はこの“Dasein”に焦点化されている。
他我の一般定立が自我の側からの定立である点を除いたとしても、この他我の一般定立が意味しているのは、他者が存在しているということ、そして他者の体験流は私の体験流と同じ構造を示すということのみである。……したがって、あらかじめ与えられたわれわれ関係は「純粋なわれわれ関係」として設定されているのであり、この関係は「(たとえば、他者が存在することといった)空虚なこと」(leeres Das)を意味しているにすぎない。一般的な共在、ないし、単なる「他者と共にある生」……は、いまだ具体的な他者経験を意味しているわけではないし、また、同種性はいまだ具体的な結合を形成するわけではない。[Waldenfels,:281]
本報告の課題の中心は、シュッツが呈示する“Dasein”という事態がはたしてヴァルデンフェルスが語るように「空虚なこと」であるのか、より正確にいえば、「他者が存在すること」とは「空虚なこと」と同値可能であるの否か、この地点にある。
2.他我の一般定立と他者問題——他者問題の基本的な輪郭とシュッツ的な途
ここでは、最初に、なぜ「他者」が「問題」となるのかを簡略に確認しつつ、シュッツ的な問いの方途が如何なるものなのかを捉えることにしよう。まずは、杉田正樹による「他者問題」の簡潔な定式を確認することからはじめたい。
他者問題は、大きく二つに分類できる。一つは、他者の「心」ないしは「内面」に関してであり、他の一つは他者の「存在」に関するものである。……他者の「心」は分からない、これはわれわれのよく知っている事実である。……この事実は二つのことを含んでいる。一つは他者は「心」を持つという確信、一つは、にもかかわらずその「心」が分からないということである。[杉田,1992:290]
むろん、こうした「経験的事実」がただちに「問題」を生起させるわけではない。他者の「心」が十全には把捉不能であるがゆえに、私たちは他者に関心を寄せるといいうるのだから。だが、「他者の「心」という分からないものが、なぜ分からないものとして知られるのか」[ibid.]。この問いが生起するところで「他者問題」は成立するということができる。この地点から翻って、明証的な確実性として〈思惟する自我〉という超越論的主観性が剔決されるのは周知の事柄であろう。その内的な事情を新田義弘が端的にまとめている。
私のほかに他の人たちが存在することはだれの目にも明らかな経験的事実であるが、それにもかかわらず、近代における知識の究極的な原理が、ほかならぬこの「私」の「思惟」そのものに、すなわち自己意識の確実性に求められる限りにおいて、他の「私」という意味での他者の存在はこの原理を否定するものとされた。自我は、もとより個々の事実的な経験的な主観であるのではなく、経験的なものを越えて、だれにとっても内在的に機能するものであるが、同時にだれによっても取り替えられることのない主観性の原理として、超越論的なものとされた。それゆえ自我は他者において働く普遍的な原理なのであるが、私の前に出現する個々の他者に「私」の超越論的内部性を移すことは、方法的に「私」の原理の自己否定を引き起こすのである。[新田,1992:8]
他者が、近代の主観性の境界領域に位置するというのは、すべての存在するものを意味として対象化する主観性にとって、他者は対象化を拒絶する、私と同様なる「自由なる機能」であるからである。その点では私の生き生きとした機能が、対象化から身を退ける場合と同様であるが、しかしまったく別の方向と場面において、この「隠れ」の原現象が生起する。すなわち他者は、私では「ない」という一種のラディカールな超越性をもって、私から身を退けるのである。[新田,1993:25]
こうした「他者問題」に対してシュッツが批判的に準拠するのはM.シェーラーの所説である。シェーラーは自然的態度における世界の地平的はたらきを、その「先与性」として指摘し、そのうえに「汝」それゆえ「共同社会」の「先与性」を重層的に措定していく。
自然的世界観において現存在的に与えられる他のすべてのもの……に対して、世界一般のまだ特性づけられていない実在性と、それに対応する「実際に世界がある」という一般命題が「前もって与えられて」いる。 〔中略〕 同世代人と共同社会の実在性は、汝領域と我々領域として、まず最初に有機的自然と生命のない自然……としての全自然に先立って与えられる。この実在性は、人間以外の自然のすべての個別的其在が消滅したと考えられるとき、あるいは無規定なままであるときにも、「領域」としておよびその領域における何かある実在的なXとして、体験に対しては存在し続ける。そして外界と内界の領域において、あるいは前もって与えられた領域におけるある「我々」の体験仲間の内部で、「我々」の諸個人のあいだで其在的に同定可能とみなされるものの領域において、まず「私の我」にとってではなく「我々」にとって……実在的なものが、これらの領域において「実在的」と「みなされる」。さらに「汝」とある共同社会の実在性が一般に、固有の自我という意味での「我」の実在存在に、そして単称的・個人的な「自己体験」に先立って与えられている。[Scheler,1926=1978;261-277]
たしかに、こうした流儀の採用をもってすれば「他者問題」は〈解消〉されるのかもしれない。だが、そこに留意すべき論点はないのだろうか。おそらくシュッツが直面する問題系は、この地点にこそ存立するとおもわれる。その問題系そのものを確認するために、再び新田の言説を参照しよう。
近代の自我論的哲学の伝統にあって、他者性の時限を確定する道ほど、アポリアに満ちた至難の道はないと言ってもよいだろう。自我の対象化作業によって他者性に迫ろうとする限り、他者は自我の単なる投影に化し、また最初から他者との共同性を前提としてかかる限り、自−他の区別は最初から止揚されてしまい、他者性の謎を解く手掛りは見失われてしまうからである。[新田,1986;456]
ここで問題点を整理しておこう。シェーラーに批判的に準拠するシュッツの眼前に開けているのはアポリアに満ちた2つの途である。一方は、《他者の他者性》を蔑ろにし「他者は自我の単なる投影と化」す。他方は、「他者問題」をそもそもそのはじめから無効化し、よって「他者性の謎を解く手掛りは見失われてしまう」。シュッツがどちらの途にも与しない理路を模索してきたことは、『構成』以来一貫していると確言しうるだろう。この点をより明確化するために、この問題系をより主題的に論じている、1942年の「シェーラーの相互主観性理論と他我の一般定立」[Schutz,1962=1983]を一瞥することにしよう。シュッツは前者の典型例として「推論と感情移入」をシェーラーに準拠して批判するとともに[ibid.159=249]、後者の典型例として自らが立脚したシェーラーの所説そのものを批判し、さらに自説である「他我の一般定立」[ibid.172=264]を呈示する。
〔シェーラー理論が為した貢献とは〕私のもの−汝のものという区別に関して無差別な体験の流れが存在し、その流れに、自分以外のすべての精神の体験が含まれているのと同じく、自分自身の体験もまたそこに含まれているという仮説を提起したことにある。こうした仮説を提起する結果、「われわれ」の領域が私の領域に先立って与えられる。つまり自己の領域とは、比較的後になって、すべてを包括する意識を背景にそこから発現してくるものであるということになる。しかし彼は、超越論的な領域内での分析によってこうした理論に確証を与えてはいない。彼がその理論に与えた確証は、児童心理学や未開人〔の研究〕によってもたらされた諸々の経験的事実を引き合いに出すことによっているのである。[Schutz,1962:165=1983:256-257]
さて、既述したようにシュッツの理路が雄弁に語るように、かれは、他者を自我のたんなる投影とする途も、同時に、先行的に問題を止揚する途もともに拒絶している。だが、これら両者を拒否する根拠とははたして何だろうか。おそらくそれは《他者への明証的な確信》である。このように述べると、少し逆説的に聞こえるかもしれない。というのも、この確信とは、そもそも他者問題がそれとして成立する出立点において、この問いそのものの起動場面においてすでにつねに生起しているものだからである。そうであるとすれば、シュッツ的な途を担保する理論的機制が問われなければなければならないだろう。私たちは、それを自然的態度の構成的現象学に求めることができる。つまり、シュッツが自然的態度の構成的現象学を自らの学的な立脚点とするのであれば、むろん自然的態度において活きいきとはたらく《他者への明証的な確信》を脇に置くことはできないからである。これが幾度となくシェーラーに準拠する理由でもある。なぜならば、シェーラーもまた、この《確信》に幾度となく遡及し準拠しつつ、自らの所説を呈示しているからである。
ロビンソン・クルーソー……は、かれと同じような存在者はむろんのこと、この存在者に関するどんな種類の兆候も痕跡も知覚しなかったし、それ以外の、そのような存在者が実在しているというどんな経験ももたなかった。[中略]ある任意の「汝」一般の実在に関して、ならびにある共同体へのその帰属に関してロビンソンのもつ明証性は、たんに偶然的に観察し帰納した「経験」的明証ではなく、むしろこれと対立する客観的にして主観的なアプリオリな明証性であり、ある特定の直観的基盤を、たとえば他者への「真正な」愛においてしめされる作用のような情緒的作用に対しては特定の十分に画定された空虚=意識ないし非存在の意識を(あらかじめ与えられた真の存在者の偶然的現存在という意味において)もっている。[Scheler,1948=1977:374-376]
《他者が他者として、そこに在ること》。この確信は「たんに偶然的に観察し帰納した「経験」的明証ではなく、むしろこれと対立する客観的にして主観的なアプリオリな明証性」である。シュッツはこの点をシェーラーと全的に共有している。だが、それをシュッツは「われわれ性」の存在論的な「先与性」に求めるのではなく、我と汝によって共構成される「われわれ関係」に、それゆえ、汝定位という志向性においてはたらく“Dasein”という相に求める。この理論機制がシュッツ的な途を形成する主因と考えてよいだろう。
だが、それだけではない。さらに指摘しておくべき論点がある。それをシュッツは1942年論文の最後に「相互主観性に関係するパースペクティヴの問題」として呈示している。そこにおいてシュッツはフッサールの『デカルト的省察』[Husserl,1950b]に準拠しつつ、「私自身の身体は、私にとって世界の時間−空間的秩序における方向づけの中心である」[Schutz,1962:178=1983:271]と語る。そこで指摘された問題系を端的に「世界の各自的現出」[新田,1982:24]と呼ぶことができる。これは「世界そのものが視点に拘束されて一定のパースペクティヴにおいて現出している」[ibid.]事態を指示する。この問題系への了知もまた、シュッツに我と汝によって共構成される「われわれ関係」に、それゆえ、汝定位という志向性にはたらく“Dasein”という相に求める、重要な理論相であっただろう。
しかし、これらの論点から呈示される“Dasein”という事態ははたしてたんなる「空虚な事実」に過ぎないのだろうか。この点の吟味をしなければならない。
3.“Dasein”という事態とは何か
ここではシュッツによって語られた“Dasein”の相がどのような事態を指示するのかを見定めたいとおもう。そのために準拠するのは精神科医である松尾正の所説である。かれが立脚するのは、統合失調症(以降、分裂病の呼称は2002年6月29日以前に使用された場合である)の精神療法の1つとされる「シュヴィング的接近法」である。それは「病者の傍らで、治療者が何も語らず、静かに沈黙して過ごす」[松尾,1987:3]というものである。この方法は、おそらく1980年代にあっては松尾にとって選び取られた1つの方法であったのかもしれない。だが、近年かれはそれを精神科医という様態の中心に据えているようだ。
ともに過ごそうとする時間と空間。その目立たない価値をそっと抱きかかえうる精神科医は、ことさら現象学的などと標榜しなくても本当に現象学的である。現象学的概念や用語をふりまく精神科医よりも、じっと他人の傍らに留まり続ける精神科医の方が、はるかに本当に現象学的である。おそらくはそんな精神科医にとっては、現象学的と呼ばれることすら迷惑であろうが。[松尾,2004:78]
さて、いずれにせよ、かれは1987年にこの方法を用いて統合失調症から寛解へと導いた一人の患者の分析結果を上梓している。その概略を周藤真也が端的にまとめているので、ここではその記述を拝借することにしたい。なお、病者の仮名を「A」と変換している。
松尾が彼に対して施した治療的状況と呼べるものは、ただ黙って彼と一緒の時間を過ごしたことだけである。松尾は治療的状況としての“沈黙”に焦点をあわせる。入院当初は、この“沈黙”は、まったくの「拒絶的沈黙」であり、松尾の存在自体を拒否しているかのようであった。だが、しばらくして松尾は「彼を自らの意識の対象として関心を向けさえしなければ、何となく彼の傍らにいることが許されるような気がしてきた」……という。松尾はこのような“沈黙”を「非対象化的無関心的沈黙」と呼び、「拒絶的沈黙」のなかにしだいに「非対象化的無関心的沈黙」を置くよう心掛けていくことによって、“沈黙”は「非拒絶的沈黙」に変化し、彼の「傍らに居ること自体」が許容されるようになったという。さらに、松尾はこのような「非拒絶的沈黙」の中で彼の自発的自己表出の発現を待っているうちに、“沈黙”の中で彼を何かから“保護”しているように感じ、「非拒絶的沈黙」は「保護的沈黙」へと変化していったのである。このような経過を通して、A〔仮名〕はしだいに自発的自己表出が可能になっていった。最終的には治療者・患者としての意図性が極度に消失した雰囲気、気分でAに対して“ぞんざい”で“?れなれしい”振る舞いが可能になり、Aは自発的に長い文章型の言葉を発することが可能になった。[周藤,1996:36]
この事例が示す寛解への過程は、「「拒絶的沈黙」から「非対象化的無関心的沈黙」を経て「保護的沈黙」へと至る3段階に整理できるが、「分裂病者に対して重要な治療的契機」[松尾,1987:33]となっているのは「非対象化的無関心的沈黙」である。これを松尾は、「おそらく治療者も病者も同じような意識様態に居るという意味で、相互的共同的な事態」[ibid.]と呼び、周藤はそれを「共同的ないま-ここ」[周藤,1996:37]へと換言する。この置換は妥当なものだろう。我と汝によって、「共同的ないま-ここ」が共構成されている。この事態を松尾はシュッツに依拠しながら、平易かつ適切に語っている。
われわれは、別の人間を、”他者”つまり「私と同じように生きている別の人間」として、「汝志向的」に相互に先構成し合っている……。「人間は、各自的であり、各々独自の認識体系をもつ独立した現存在である」というような”意識的判断”事態も、実はこのような「汝志向性」を基盤とした二次的構成概念なのである。……「私にはあなたのいうことがさっぱり理解できない」などという体験も、「汝志向性」が超越論的前述語的経験としてすでに前もって機能しているが故に成立する、述語的意識的判断に他ならない。[松尾,1987:44]
かれは「「汝志向性」は、特別な場合を除いては、かならず”相互的”なはずである」[松尾,1987:45]という。では、「特別な場合」とは何か。「私と分裂病者との”あいだ”とは、相互的な「汝志向性」が機能しない特別な状況である」[ibid.]。つまり、「私と分裂病者とのあいだでは、シュッツの意味での「われわれ関係」が失われている」[ibid.]。いい換えれば、松尾はそこに「汝志向性」においてすでにつねにはたらく“Dasein”の相の志向的能作の決定的な欠落という事態をみている。後にかれは、それを「分裂病者の前の私自身の不自由」[松尾,1992:77]と表現している。
明証的に直観可能な事物様対象としてわれわれに与えられる分裂病者というのは、……第三の道が塞がれているということ、……その絶対的な外部性としてわれわれに分裂病者が与えられないということを意味している。……われわれの前の分裂病者は、生き生きとした絶対的未来性としてわれわれ自身の存立根拠において到来せず、われわれ自身の自由を生き生きと賦活しえない他者なのである。分裂病性自閉感とか、分裂病性印象(プレコックス感)という形で……指摘され、かつ密かに「いわば邪道として」……生き続けてきたわれわれ自身の主観的直観は、じつはこのような分裂病者を前にしたわれわれ自身の窒息感に根拠を有するものなのである。[松尾,1992:77-78]
ここで松尾が呼ぶ「第三の道」とは、かれもまた、私たちがすでに確認してある「他者問題」を巡る2つの途をともに拒否することを含意している。松尾もまた新田に論拠しつつ、「第一の道は他者を自我にとって対象として下落させ、第二の道では他者を自我との等根源性において「われわれ」として弁証法的に止揚してしまうだけ」[ibid.]だと確言する。
われわれは、もう一つの道、つまり他者の絶対的超越性、「原初的差異」としての無限の距離を、自我の生ける絶対的事実性として解明するという第三の道を、いま模索しているところなのである。[松尾,1992:76-77]
この記述を瞥見しただけでも、松尾が模索する「第三の道」がシュッツ的な途と同値ではないことを知るのは容易い。だが、1980年代の松尾がシュッツの「汝志向性」に全的に依拠することによって、この「第三の道」という扉の前に立っていたことは明らかであろう。あるいはより積極的に、シュッツ的な途もまた「第三の道」の1つであるといいうるだろう。なぜならば、シュッツ的な途もまた《他者への明証的な確信》に忠実であろうとすることによってしか成立しえないからである。逆からいえば、「分裂病者を前にしたわれわれ自身の窒息感」という松尾の適切な記述が成立する根拠もまた、自然的態度において他者とともに在り、それを自明視している私たちに〈もたらされる他者への明証的な確信〉にあるといいうるからである。
松尾は《他者への明証的な確信》が「二重の二重性」[ibid.,65]において生起しているとみる。第1に二重性は「他者の現象としての二重性」[ibid.,63]である。「私が見ることができる身体物体性(Korper)と、私が見ることができぬ他者の生ける身体性(Leib)との間の”隔たり”」 [ibid.]、これに加えて、すでにシェーラーとともに確認してある他者への「客観的にして主観的なアプリオリな明証性」が別様に重ねられる。後者は「明証的に与えられぬ他者の存在そのものが明証的である」[ibid.,65]と定式化される。
さて、ここで吟味すべき議論の道具立てはすべて出揃ったとおもわれる。私たちは本報告の課題の中心を、シュッツが呈示する“Dasein”という事態がはたしてヴァルデンフェルスが語るように「空虚なこと」であるのか、より正確にいえば、「他者が存在すること」とは「空虚なこと」と同値なのか否かに置いてきた。かれの批判を再録しよう。
他我の一般定立が意味しているのは、他者が存在しているということ、そして他者の体験流は私の体験流と同じ構造を示す……のみである。……したがって、……われわれ関係は……「(たとえば、他者が存在することといった)空虚なこと」(leeres Das)を意味しているにすぎない。一般的な共在、ないし、単なる「他者と共にある生」……は、いまだ具体的な他者経験を意味しているわけではない。[Waldenfels:281]
私たちはこの批判に対して、「汝定位」においてすでにつねにはたらく“Dasein”の相とは、《他者が他者として、そこに在ること》への「客観的にして主観的なアプリオリな明証性」を端的に指示していると応えることができる。
おわりに——《志向性の社会学》の可能性へ
ヴァルデンフェルスが示すシュッツ批判の中心は、「自我中心主義」[Waldenfels:281]あるいは「社会的世界の自我中心的構成」[ibid.:277]にある。この批判は、『構成』第2章で呈示される意味構成論においては妥当している。「明らかにシュッツは、行為者は彼の行為に意味を「結合」するというM.ヴェーバーの命題を、フッサールの現象学の助けを借りて解明しようと試みている」[ibid.]。だが、ヴァルデンフェルスはそもそも第2章の意味構成論をフッサールに論拠することそのものが「不適当」だという。なぜならば、「フッサールは、作用の意味を決して反省のなかにはじめて存在するものと考えたのではなく、作用をさまざまな志向性に関係づけたからである」[ibid.]。この批判は、第2章にみられる「二重性の理路」[張江,1998:34]を等閑に附しているとはいえ、妥当なものだろう。 こうした適切な批判の可能性は、かれのシュッツ理論への構えに端的に顕れている。かれの批判は、「シュッツの社会哲学の限界を確定するためになされるのではなく、むしろその推進力を解放することを目指す」[ibid.:274]とされる。かれは「自我中心主義」からの解放を目指す。だが、それがシュッツ的な途を「空虚なこと」と結論する帰結をもたらすのであれば、私たちは明確に、あえて「第三の道」を歩むと確言すべきなのではあるまいか。この意味で、佐藤嘉一が『構成』を、「「社会的世界とは〈社会の中にある〉自己による意味構成体に他ならない」……。「自己のなかの社会」研究の最初のマニフェストである」[佐藤,2004:5]と宣言する意義は大きいだろう。 最後に、門脇俊介の言説を参照して本報告を閉じたいとおもう。
人間を理解すること、あるいはそうした人間理解をより厳密にしていくこと、いずれの場合でもそれは、ある誰かを理解することである。ある不可解な行動をとる人物を理解しようとするとき、われわれは最終的に、その人物の志向性を理解することを目指している。彼はなぜ昇進を断ったのか。われわれは、彼の行為を動機づける志向性の適切な記述を彼に帰することができたとき、彼を理解できたといえる。[門脇,2000:295]
この哲学者が示す判断基準は、単純にして明快である。日常生活において私たちは、むろん哲学や社会学……などなどの学的論及に先立って、理解あるいは理解するという行為(遂行)をすでにつねに為している。この構造性を社会学にあって明確に呈示したのがシュッツであった。1960年代にみられた〈シュッツの発見〉[張江,1991:27]以降、自我論的な理論機制を基本とするシュッツ現象学的社会学を「自我中心主義」から解放しようとする試みは繰り返し散見される。だが、理論的な出立点とされる自我もまた、状況内存在であることは共通の了知でもあろう。そうであれば、出立点もまた構成されるとする問いの方途を重ねることで、重層的な自我論の可能性がみえてくるだろう。 問われるべきは、如何に十全な理論(と映じるもの)を呈示するか以上に、どのような事態を注視し、要諦とすべき事態を手放すことなく問いを歩む、その意味でシュッツ的な途をすすむことにあるとおもえる。