拙著『精神分析と社会学』をめぐって

竹中均(神戸市外国語大学)


     

  拙著『精神分析と社会学—二項対立と無限の理論』を読んでいただいた方はどなたも、『精神分析と社会学』という極端に大きな題名と、実際に論じられている事柄の小ささとのあまりの違いに、誇大広告ではないかとご不審に思われるに違いありません。私自身、この題名の適否については考える余地は大いにあるとは思いますが、それにも拘わらず、『科学的心理学草稿』という小さな文章が大きな問題と関わっているに違いないという見込みは、未だに捨てきれないというのが、正直なところです。

この点について少しでもご理解いただければと思い、補助線として、ここでご紹介したいのが、中沢新一さんの講義録『対称性人類学—カイエ・ソバージュ?』(2004年、講談社)です。この著書は、一連の講義録シリーズの最終巻であり、「ひとつの一貫した思考によって、レヴィ=ストロースの神話論、クラストルの国家論、マルクスの経済学批判、バタイユの普遍経済学、ラカンによる無意識のトポロジー論、ドゥルーズの多様体哲学などにしめされた思想の、今日的な再構成」を試みたものだということです(8頁)(拙著、108頁参照)。更に言えば、この書は「神話的思考の本質をあきらかにすると同時に、『無意識』の働きに格別の価値を回復しようともしている」(7頁)というのですが、出来栄えの違いは別として、拙著のねらいもまた、同じようなところにあると思われるからです。

中沢さんは、このシリーズ全体を通じて、神話的思考の重要性を主張しますが、その理由は、「科学的思考が使っているのとまったく同じ『二項操作』を用いながら、神話的思考はそれとはまったく違う『対称性の論理』による、独自の思想を生みだそうとして」きたからです(15頁)。両者の違いについては、次のように記されています。

「科学は二項論理を道具に使って、アリストテレス型の論理を働かせます。それにたいして、神話の思考は同じ二項論理を基礎的な道具として用いながら、アリストテレス論理の型にはおさまらない、ときにはまったくそれに違反するようなタイプの、異なる論理を働かせる」のです(25頁)。「アリストテレス論理の特徴はいくつもありますが、そのなかでもいちばん重要なのは『矛盾律』についての考え方でしょう。Aという命題があって、〜A(非A、Aでないもの)という命題があるときには、Aと〜Aは両立できない、というきまりです」(25頁)。「ところが、神話では堂々とこの『矛盾律』がくつがえされてしまうのです」(26頁)(拙著、88頁参照)。

中沢さんは、ある神話を例に挙げます。そこでは「山羊—人間」が登場し、「『人間』という種のクラスと『山羊』という種のクラスの分離」がくつがえされていると言います(28頁)。このような思考は、生と死の関係についても再考を促します。つまり、科学においては「生は死と分離されていなければ、思考が動き出すことはできません。そのため科学は、死というものを全体性としてとらえることができない」というのです(31頁)(拙著、37頁参照)。

神話的思考のもう一つの特徴として、中沢さんが取り上げるのが、「全体と部分の一致」ということです(45頁)。ある儀式の例を用いているのですが、その儀式は二つの段階から成り立っており、まず、第一段階が、「無限の全体」が「有限な部分」を呑み込むことであり、第二段階において、「無限の全体」から「有限な部分」が誕生します。そして両段階を合わせると、「『全体と部分が一致する』という特別な構造」となるというのです(48頁)(拙著、90頁参照)。

以上の話は、確かに神話に関するものであり、いわば社会学的な関心の範囲内に比較的自然に納まりうるでしょう。しかし、中沢さんが「対称性の思考」と呼んでいるものは実は、神話だけではなく、「フロイトやラカンによって深められてきた『無意識』という考え方と深いつながりを持って」います(7頁)。このことをはっきりと示してくれるのが、中沢さんによれば、精神科医I.マテ‐ブランコ(1908〜1995)の著作『無限集合としての無意識』(原著は1975年)における個人の無意識の研究です(この著書全体は未だに翻訳公刊されていないようですが、他の翻訳書としては、岡達治訳『無意識の思考』(原著は1988年、新曜社、2004年)があります)。この研究に出会ったことを中沢さんは、「それまでどうしても見つけられないでいた思考のミッシング・リンク」の発見と呼んでいます(296頁)。

マテ‐ブランコによれば、無意識の原理の第一は、「日本国民だとか人類だとかいった『クラス』を、まるで個体や個人のように取り扱おうと」することです(54頁)(拙著、170頁参照)。無意識の原理の第二は、「対称の原理」と名づけられています。「通常の科学的思考では、ものごとを分離し、矛盾を生み出す混じり合いがおきないように不均質に保つ、非対称性の原理」が守られているのですが、無意識では、それが守られていないのです。そして、「対称の原理」から帰結するのは、「時間的継起はありえない」ということであり、また、「部分と全体とはかならず同一となる」ということです(55頁)(拙著、99頁参照)。

このような「対称の論理」で作動する無意識は、「無限集合infinity setの特徴をそなえている」(181頁)というのが、マテ‐ブランコの主張ですが、「部分と全体の一致」と「無限」とはどう関わっているのでしょうか。この点について中沢さんは、マテ‐ブランコを援用しつつ、次のように説明しています。「自然数をはじめから順番に、1、2、3、4、……と数え上げていってみましょう。この数え上げはどこまででも続けていくことができますから、無限集合Nを形成します。つぎに偶数をやはりはじめから数え上げていってみましょう。2、4、6、8……この偶数の集合は2Nであらわすことができます。偶数の全体はあきらかに自然数の全体に含まれます。つまり、偶数の集合は自然数の集合の「部分」です。「全体」に「部分」が含まれています。ところが、集合Nと集合2Nのあいだには一対一の対応をつけることができます。1には2を、2には4を、3には6を、というようにしていくと、自然数と偶数を完全に一対一で対応させることができるからです。そうなると、自然数の集合と偶数の集合は、完全に一致しています。すなわち、「部分」と「全体」が一致しています」(188頁)(拙著、138頁参照)。

中沢さんは、『華厳経』の中にも、このような「現代無限集合論とそっくりのやり方」(187頁)を見出します。「『法界は無限である』『心は無限である』ということを言うのに、仏教思想家たちはロマンチックでいい加減な表現に走るのを嫌って、じつに正確な論理—数学的な構造として、それを表現してみせています」(189頁)(拙著、218頁参照)。仏教は、一神教とは異なり、「対称の思考」に満ちています。「仏教は現生人類の『心』の基体である無意識の働きを抑圧するどころか、その反対に無意識の働きを全面的に発達させ、その働きを完成に近づけていこうとしている」のです(175頁)。

そして、大乗仏教のこのような思考に基づく芸術表現として、龍安寺の有名な石庭が取り上げられています(194頁)。「庭師のような中世の『職人』たちが発展させ、伝えてきた技芸(メチエ)の思考」は、「対称の思考」に深く根を下ろしています(197頁)。そのことは、例えば、石庭において苔に与えられている役割、「自分がへばりついた相手の同一性をおびやかそう」とする役割に顕著に現れています(195頁)(拙著、208頁参照)。

思想や芸術表現においては、以上のように無限が作用しているのですが、それでは、個人の体験の水準では、無限はどのようにして経験されるのでしょうか。例として挙げられているのが「性的体験」です(214頁)(拙著、175頁参照)。マテ‐ブランコのクライアントの次のような言葉が引用されています。「こうした衝動は、明確なイメージをもっていません。あとになってそれらに名前を与えるのにさえ、大変な困難を覚えます。非常にたくさんの異なる衝動が自分の内部に混在していて、ひとつの衝動にはかならず相反した衝動がともなっています。数学的に表現すれば、+と−の混在です」(215頁)(拙著、88頁参照)。

以上のような問題群を展開した後で、終わり近くになって中沢さんは、「よみがえる普遍経済学」という章において、「新しい人間の理解として」、バタイユの「普遍経済学」の再生を提唱します(236頁)。その背景にある前提は、「経済活動はなにかを生みだそう、生産しようとする『生の衝動(エロス)』だけで動いているのではなく、その根底には破壊や死をめざす『死の衝動(タナトス)』がひそんでいる」という認識(235頁)、言い換えれば、「消費こそが資本主義の生命である」という認識です(236頁)。そして「そもそもフロイトが無意識の作動の中から取りだして見せた『死の衝動』そのものが、対称性の原理と深く関わって」いると言います(237頁)。

そのような「死の衝動」の端的な現れは、見返りを一切求めず、交換の輪を形成しない「純粋贈与」です(239、240頁)。この一見、特別な例外にしか見えない「純粋贈与」が実は、交換の輪を根底で支えているのです。「商品交換のようなものでも、消費への欲望なしには、少しも動いていきません。そういう意味では、どんな交換でもいちばん奥の部分には、破壊的な死の衝動がセットされていて、それが商品社会の全体を動かしている見えない機動力だとも言えるのですが、贈与にあっては、そのことが露骨にむきだしにされています」(239頁)。

現在、「非対称性の論理」に基づく生産と交換の経済学(通常の経済学のことですが、それをバタイユは相対化して、「限定経済学」と呼びます)が盛んに活用している数学に「匹敵するような数学的な理論」を、この「純粋贈与」に対して新たに作ることこそが、「対称性人類学が取り組んでみるに値する、ほんものの問題」であると中沢さんは言います(244頁)(拙著、37頁参照)。そのためには「贈与論にふさわしい数がどんな種類のものであるかを、はっきりさせておかなければなりません」(244頁)。

生産と交換による「限定経済学」が、「自然数にはじまり実数にたどりつく数の発明」(246頁)に裏付けられているのに対して、消費と純粋贈与までをも組み込んだ「普遍経済学」は、「自然数や実数とは根本的に異なる構造をもっている、何か新しいタイプの『数』でなければ、その動きをアナロジカルにつかむことさえできないだろう」というのです(246頁)。中沢さんは、このような新しいタイプの「数」のひとつの候補として、「ライプニッツ流の実無限としての『無限小』や『無限大』を組み込んで拡大された実数、すなわち『超実数Hyperreal Number』の体系」に注目します(247頁)。

ここで、「無限小」が持つ思想的意味合いが問題になってきます。「ライプニッツは微分積分学を創造するさいに、『役に立つ想像上の数』として『無限小infinitesimal』という概念を導入しました」(248頁)。中沢さんは、この「無限小」は、「役に立つ想像上の存在」としての天使に似ていると言います。天使が「役に立つ」と言われる所以はこうです。「天使は、神のすむ『永遠』の時間には住んでいません。それは、『永在(Aveum)』の時間に住んでいると言われます。『永在』時間は、神のものである無時間と人間のものである有限な時間の間をつなぐ、中間的な時間の概念をあらわしています」(262頁)。この概念が出来たおかげで「ヨーロッパ世界は資本主義の近代を押し開くことができたとまで、言われている」そうです(249頁)(拙著、119頁参照)。

ところで、「天使」的数である「無限小」は、「そのような怪しい素性をもった数ですから、近代になって、シニフィアンの世界に属するものをなんでもかんでも貨幣のように合理化しようとする風潮がつよくなってきますと、無限小のようないかがわしい概念はなるたけ使わないほうがいいのではないか、という意見が強くなり、微積分の世界からも追放されてしまったのでした。無限小の追放は、近代資本主義の発達と軌を一にしています。その資本主義は一神教文明の土台の上に花開いた経済システムとして、原初的抑圧としての数と貨幣によって支えられていましたから、そこに無限集合としての無意識の働きをひそかに運び入れてしまう無限小のような概念を、神経質なくらい警戒したのです」(251頁)(拙著、86、129、130頁参照)。

中沢さんはこのようにして、「二項操作」と「無限」という概念を縦横に駆使することによって、経済という社会的行為の無意識領域にアプローチしようと試みているのです。僭越ではありますが、私自身が『精神分析と社会学』という大風呂敷を広げたような題名の下で試みたのもまた、説得力の如何を問わずに言えば、同じようなことだったのではないかと思っております。以上のような補助線を引くことで、拙著に対して少しでも親しみを感じていただければ幸いです。

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