21世紀を迎えた現代社会を宗教という眼鏡を透して覗いてみると、どのような風景が現れてくるのだろうか。一方では、ファンダメンタリズムや「カルト」といった〈宗教〉が平穏な市民生活や文明社会に対する脅威として語られ、他方では、「ニュー・エイジ」や「スピリチュアリティ」という流れが市民生活や文明社会のストレスや病を癒すことを主張し、それに呼応するかのように、〈心の時代〉とか〈癒し〉といった言葉が溢れている。これを所謂〈宗教〉と言い切ってしまうことは問題を含んでいるけれども、所謂〈宗教〉が少なくともその流れの一端を担っていることは否定できないだろう。一方では〈宗教〉はテロの根源だったり、健全な人格を〈マインド・コントロール〉によって破壊してしまう脅威であり、文明社会にあってはならないスキャンダルとして忌避されている。他方では、〈宗教〉は脅威どころか、人々を文明社会から癒すもの、さらには文明社会自体を癒すものとして期待されていることになる。オウム真理教や 9.11テロの報道に反応して、宗教ってやっぱり怖いよねと思うと同時に、日常生活からの癒しを求めて、熊野詣をしたり、四国遍路に憧れたりする。このようなことは大いにありうることである。
個々の具体的な宗教組織や実践とともに、〈宗教〉に対するこのような矛盾しているかにみえる態度の共存が社会学、特に宗教社会学の重要な研究課題であることは当然だろう。さらに、このようなアンビヴァレントな態度、或いはカルトやファンダメンタリズム或いは〈スピリチュアリティ〉といった〈宗教現象〉の背景(地)である現代社会それ自体に目が向けられるべきだろう。換言すれば、宗教論は現代社会論或いは社会理論へと架橋されなければならない。また、その際、現代社会を担っているのはそれぞれの〈私〉にほかならないということも無視することはできない。現代社会それ自体を視野に納めることとほかならぬ〈私〉の実存に定位することが同時に要請されるのである。たしかに困難ではある。そこで、本稿においては、宗教への直接的言及・考察からは一旦は身を退きつつ、ハンナ・アレントのテクストを参照し、「孤独(loneliness)」という実存的境位を取り上げ、宗教論と現代社会論或いは社会理論を架橋するための視座を確保することに努めたい。何故「孤独」を取り上げるのかといえば、後述するように、それが現代社会の淵源である近代の存立に深く関わっており、(本稿では現代社会のポストモダン的側面は捨象し、徹底した近代としての側面を強調することになるのだが)現代社会においても変わらないと考えるからである。具体的には、「孤独」とともに「収用」という鍵言葉が見出され、それと世俗化との関係が探られ、さらにはグローバル化や新自由主義といった今日の状況における宗教と近代の実存的境位としての「孤独」との両義的な関係が問われることになる。
ハンナ・アレントは『全体主義の起源』の最終章「イデオロギーとテロル」において、
テロルは互いに孤立した人々のみを絶対的に支配するということ、従って、あらゆる圧政的な政府の主要な関心の一つはこうした孤立を生じさせることだということは、屡々観察されてきた。孤立(isolation)はテロルの始まりであるかも知れない。それはたしかにテロルの最も肥えた沃土である。孤立は常にテロルの結果である。[Arendt, 1985: 474]と述べている。しかしながら、「孤立」は未だ「前全体主義的」なものにすぎないという。「孤立」が圧政に対応した無能(impotence)1 としての実存的境位だとしたら、全体主義に対応する実存的境位は「孤独(loneliness)」である。アレントによれば、「孤立と孤独とは同じではない」。孤立は「誰も私と一緒に行為2 するだろう者がいないが故に行為できない状況にいること」であり、孤独は「人格(person)としての私が自らを全ての人間的交わりから見捨てられてしまったと感じる状況にいること」なのである[ibid.]。さらに、孤立はそれ自体としては、「制作(fabrication)」、「ポイエーシス、物作り」3 といった「人々の生産的活動」の条件として要請されるものである[Arendt, 1985: 474-475]。しかしながら、「共通世界に何かしら自分自身のものを追加する能力」が破壊されるとき、孤立は「耐え難い」ものとなる。それが起こるのは、「あらゆる人間的活動様式が労働することへと変容された世界」、「人間による人工物としての世界との関係性が壊され」、生命維持すなわち「生き残るための努力」のみが残された世界においてである[Arendt, 1985: 475]4。「このとき、孤立は孤独になる」。また、「孤立は生の政治的領域に関わるのみだが、孤独は人間的生全体に関わる」[ibid .]。アレントは例えばナチズムやスターリン主義という全体主義は、この孤独という実存的境位、「人間の経験の中でも最も根柢的かつ絶望的なものの一つである、世界に全く属していないという経験」に基礎づけられているというのである[ibid.]。
この孤独という実存的境位は、「最も絶望的」であると同時に「最も根柢的」なのであり、例外的な人が例外的な状況で経験するといったものではなく、些か稀薄なかたちでは近代人誰でもが経験しうる近代の通奏低音的な気分といえるものだ─孤独は「産業革命の開始以来近代的大衆の呪いとなっており、前世紀末における帝国主義の勃興と我々自身の時代の政治制度及び社会的伝統の崩壊とともに強烈なものとなった根こぎにされていること(uprootedness)と余計者であること(superfluousness)と密接に結びついている」[ibid.]。アレントは、
非全体主義世界において人々に全体主義的支配への覚悟をさせるのは、かつては老齢のようなある種のマージナルな社会的条件において通常は被られる境界的経験だった孤独が我々の世紀の増加する一方の大衆にとっては日常的経験(an everyday experience)になってしまったという事実である。全体主義が大衆を衝き動かし・組織化する無慈悲な過程は、この現実からの自殺的な逃走であるかのようだ。[Arendt, 1985: 478]
と述べている。『全体主義の起源』の前半部5 は全体主義それ自体ではなく、文字通り「諸起源」を主題とするものだが、全体主義の前提としての「根こぎにされていること」や「余計者であること」という社会的気分を近代史の中で浮き彫りにしてゆくことを目的の1つとしていたと考えることができるのである。アレントはここで「産業革命の開始」という歴史的出来事を挙げている。しかし、我々は孤独という実存的境位の起源(の1つ)をさらに近代の入り口まで遡ることができると考えるし、後のテクストにおいて、アレント自身がそのように思考している。次章においては、「収用」を鍵言葉としつつ、世俗化との関連で、現代社会、現代宗教を考察する準備として、孤独を近代の存立との関連で思考することが目指される。→続きを読む(頒布案内)