1980年代後半以降、欧米諸国において「スピリチュアル」や「スピリチュアリティ」の語が多くの人びとの間で広く用いられるようになってきている。宗教には違和感をもちつつもスピリチュアルな体験には関心があると主張する人びと、反対に、宗教のエッセンスとしてスピリチュアリティを大切にしようとする信仰者、さらには教育や医療や社会福祉の現場においてスピリチュアルな何かを伝えようとする専門家など、この語は使用する人によっても、使う場面においても若干異なるようである。しかし、「宗教」とは異なるニュアンスをもった、「見えない何かとのつながり」を示す「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」の語は、欧米社会においては広く受容されてきている。WHO(世界保健機関)が従来の「健康」の定義である「肉体的、精神的、社会的に幸福な状態」にスピリチュアルな次元も含める試案づくりをしたこと(現在は保留となっている)も手伝って、この語は主流文化においてもある種の市民権を獲得したと言ってよいだろう。
日本でも、欧米と同様に、「宗教」という語には違和感をもつが、人間のこころや精神や生き方に関わる何らかのものを大切にしたいと考えている人たちは少なくない。大型書店の精神世界/ニューエイジのコーナーに行くと、タイトルに「スピリチュアル」の語を使用した書籍を多く見かける。たとえば、『男女のスピリチュアルな旅』(日本教文社、1997年、原題 Intimate Relationship and the Path of Love, 1990)、『スピリチュアル・ドリーム』(PHP 研究所、2003年、原題 Book of Dreams, 2002)、『スピリチュアルな生活へ、7つのアドバイス』(ヴォイス、2004年、原題 Seven Whispers, 2002)など、原書にはない「スピリチュアル」の語を翻訳で使用するケースもあるくらい、このジャンルの愛読者にはポジティブなイメージを喚起する語となっている。また、医療や教育などの現場では欧米と同様に、いのちや魂や見えない何かとのつながりを強調するスピリチュアリティ文化は浸透しつつあるように思える。しかしながら、「スピリチュアル」や「スピリチュアリティ」の語の日本人一般への認知度はあまり高くなく、日常生活においてこれらの語を使用する人びともかなり限られている。
本稿では、現代社会の動向を読み解き、現代人のこころの有り様を探るべく、時代の変化を鋭敏に映し出す鏡としての宗教、とりわけスピリチュアリティ文化の展開に着目して2つの考察をおこなう。第1に、1960年代以降のスピリチュアリティ文化が日本社会一般とどのような関係にあったのかの歴史的変遷を概観し、同時に現代文化における主要な価値体系の変化についても明らかにする。第2に、スピリチュアリティ概念に馴染みのない大多数の日本人の(広義の)宗教的経験を描き出すことが可能となるようなスピリチュアリティ研究の方向性を模索する。具体的には、生老病死という当事者の実存を揺さぶる状況での人びとの経験を考察することによって、スピリチュアリティ研究の射程がニューエイジ研究をはるかに越えた現代社会・文化研究となることを示したいと思う。以下では、まず欧米と日本のスピリチュアリティ研究の現状を概観することからはじめたい。
欧米のスピリチュアリティ研究は、「宗教」には違和感をもちつつも「スピリチュアリティ」には関心をもつと主張する人びとの増加に対応して展開してきたと言ってよいだろう。当初は一般用語であり、当事者概念であったこの語は、1990年代以降になると学術用語としても徐々に規定されるようになる。たとえば、ベックフォードは制度宗教の内部のみならず、医療・教育などの諸領域にも浸透し、発展するホリスティックな世界観をもつ文化現象を「新しいスピリチュアリティ(New spirituality)」[Beckford, 1992]と捉えた。またヒーラスは、ニューエイジに典型的に見られる文化的諸実践は、社会や文化に抑圧された本来の自己の聖性を取り戻す探求行為であると捉え、「自己のスピリチュアリティ(self spirituality)」[Heelas, 1996]と名づけた。さらにストームは、現代スピリチュアリティ文化の支持者が、従来のように教団や教会などの制度に拘束されない個人的探求を重視する傾向に着目して、「非制度的スピリチュアリティ(non-institutional spirituality)」[Storm, 2002]と概念化している。
これら3つの概念は、イギリスの社会学者、宗教学者によって提示されたものであるが、欧米の社会状況一般にも妥当すると考えてよいだろう。また、現代アメリカ、とりわけ1960年代以降の団塊の世代の人びとの宗教性について言及した、ルーフの「内省的スピリチュアリティ(reflexive spirituality)」[Roof, 1999]やウスノーの「探求のスピリチュアリティ(seeking spirituality)」[Wuthnow, 1998]といった概念と多くの共通点をもつ。ホリスティックな世界観、制度に拘束されない個々人による自由な探求、自己の内面への内省的な態度など、そうしたものすべてが現代スピリチュアリティ文化の特徴と言ってよいだろう1。
一方、日本の宗教学、宗教社会学においても、1990年代後半から現代宗教の一動向を理解する試みとしてのスピリチュアリティ研究が展開する。これは1970年代後半から90年代前半にかけての新宗教研究、90年代中頃からの精神世界・ニューエイジ研究に続く、現代宗教研究の第三波として登場したものである2。
スピリチュアリティ研究の先駆けは、島薗進による『精神世界のゆくえ』[1996]である。この著書で理論・実証の両面にわたって詳しく整理された「新霊性運動=文化」概念は、1992年の段階ですでに提示されており、欧米でのスピリチュアリティ研究とほぼ同時期に独自の理論化が日本でもおこなわれていたことを示している[島薗,1992]。21 世紀に入ってからは、3冊の編著が刊行され、日本や海外のスピリチュアリティ文化の究明が試みられている。樫尾直樹編『スピリチュアリティを生きる』[2002]では、セルフヘルプ運動、ネット恋愛、見世物小屋、マンガと死、サッカー、ニューエイジ系の諸活動(ガイアネットワーク、森のイスキア)が取り上げられている。湯浅泰雄監修『スピリチュアリティの現在』[2003]では、キリスト教、先端医療、WHO、精神医学、ユング心理学、フェミニスト神学など、また伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編『スピリチュアリティの社会学』[2004]では、自己啓発セミナー、新宗教や「カルト」(和尚ラジニーシ・ムーブメント、フランスの崇教真光、真如苑、統一教会、オウム真理教)などが事例として扱われている。
日本のスピリチュアリティ研究の特徴は、欧米よりも幅広い文脈で研究がおこなわれている点にある。こうした傾向は、「スピリチュアル」「スピリチュアリティ」の語の社会的認知度が低く、それゆえ、調査対象が研究者の裁量に任されていることにも関わっている。事実、日本の「スピリチュアリティ」概念をめぐる状況は、1 当事者による一般用語、2 研究者による学術用語、さらには3(自らもスピリチュアルであらんとする)探求型研究者による実践用語が混在し、未整理の状態にあるように思われる。つまり、日本のスピリチュアリティ研究は、多様な広がりをもたらす可能性もあるが、同時に研究者による独善的な基準で対象設定される問題性も孕んでいると言えよう。→続きを読む(頒布案内)