1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以降、日本では「カルト」問題が一般社会で認知されるようになった。10年たった今、事件の衝撃や危機意識は風化しつつある。麻原教祖の死刑判決前後1ヶ月の報道も、人々の記憶を回復するほどではなかった。アーレフの出家・在家信徒1500 名余りの存在や、彼等の集団居住に反対する地域住民、或いは出家した家族の帰還を待ち望む家族の存在もメディアの関心事ではない[櫻井,2004d]。
しかしながら、モラル・パニック的状態に陥った日本の時代批評や好事家(オウマー等)による丹念な情報収集に比べて、学術的な宗教研究は正直なところ見劣りする。オウム事件や「カルト」問題を十分に咀嚼し、問題の解明や研究方法の革新を行ったとはとうてい言えない。宗教研究者、島田裕巳氏の問題がその一例である。彼は事件後、オウムへの評価の甘さと教団に家族が巻き込まれた学生への不適切な対処等を批判され、また、オウムからホーリーネームを貰っていた等の誤報・風評被害により、日本女子大学教授を辞めた。それ以降、現在に至るまで同氏による問題提起をアカデミズムは適切に受けとめて来なかった。教団やマスメディアとの関わりにおける研究姿勢という個人的問題と、調査対象の内在的理解(参与観察や面接法、ナラティブの解釈等)という学問上の問題が複雑に絡み合い[弓山,2002]、容易な返答ができなかったというのが実情であろう。
本稿の目的は、「カルト」問題を考察することで宗教研究、とりわけ宗教社会学の調査研究において、方法論的革新が求められていることを論じる。そして、それは後述する調査の方法論的難点のみならず、研究者が問題に巻き込まれ、利害関係に加担せざるをえない社会的状況のゆえに、革新の道筋がそう簡単なものではないことを指摘したい。このような主張は宗教社会学では目新しいかもしれないが、社会学では既に社会調査の様々な問題として論じられてきたことである[日本社会学会編,2003]。また、人類学が民族誌を記述する方法論、及び対象者・対象地域との倫理的・政治的問題に直面しながら苦闘してきた問題意識をようやく共有し始めたと言えるのかもしれない[太田,2001]。
以下、1章では「カルト」問題における基本的な問いである「人はなぜ入信するのかという説明」のフレーミングの問題を取り上げ、2章では、入信論の根拠となる「カルト」信者や脱会者のナラティブの問題を検討する。そして、終章で「カルト」問題研究の社会的意味を確認しながら、調査研究の目指すべきところを論じようと思う。
「なぜ、あの人があのような教団に入信したのか。」「それは信仰の結果なのだろうか。」
研究者にせよ、宗教者にせよ、或いは一般市民も、伝統宗教以外の新宗教や社会問題化した教団への入信に関して、これらの問いを抱くであろう。思いつきで答えるのでなければ、何らかの方法で調べる必要がある。1つのやり方は、先学の人々が考えた事柄をヒントに思索をめぐらすことである。もう1つは、当人か、事情を知っている関係者に様子を尋ねてみるという手である。どちらにしても、調べる前か、調べた後に、入信の類型や理由等についての仮説を作るであろう。こうした作業を制度化された学問の枠内で行えば、研究による理論構築ということになり、特定の主張をなすための運動で行えば、(文化的・社会的)フレーミングということになる。どちらも自分の主張を一般市民に納得してもらうために、学術的組織やメディアの媒体を利用して「なぜ・いかに」に関わる理屈を説明し、賛同者を獲得しようとする[野宮編,2002; Benford & Snow, 2000]。
宗教研究の場合、当該の宗教制度や宗教運動、或いは宗教文化の外部で理論構築を行おうという営み(例えば宗教学等)の他に、内部からの当事者による主体的な問いと答え(神学者・教学者から信者の体験談に至るまで)がある。日本基督教団所属教会の信徒が信条を語れば、それは尊重されるであろうし、神学者や牧師の語る言葉は傾聴されてもいる。それらの問いと答えを無視した宗教研究はありえないであろう。自らの主体的な信仰によって、当該の宗教伝統や教団を内側から語る研究者の言葉は重く受けとめられるのである。
ところが、「カルト」問題研究では、圧倒的に宗教の外部で理論構築とフレーミングが行われる。反カルト運動において、教祖や信者の言説は、批判団体や運動において否定されるべきものである。アーレフの開祖麻原彰晃や信者が語る教えや信仰実践に共感する人は潜在的に少なくないかもしれないが、それを学会や一般社会で公表することは差し控えられるであろう。自分の人生観や人格形成に関わらせてこの問題を扱うと、世間から無用の誤解を受けかねないとして、研究者は信者の自己理解や信仰の表明をデータとして扱う。つまり、それらは入信の動機や教団による教化の言説を示す1つの資料として尊重される。
「カルト」問題では、当該教団の存在を是認するにせよ、否定するにせよ、宗教行為の当事者よりも、外部の研究者や反対運動のフレーミングによって信者や教団像が形作られる。この点において宗教一般とは異なる。さらに、歴史学の民衆宗教史や宗教学・宗教社会学の新宗教研究のように、政治体制や伝統宗教へのオルターナティブという視点から宗教者の内面的世界を探求することで、対象への理解を示すような態度が取りにくい。宗教思想として公認したものと教団や社会から誤解を受けかねないからである[櫻井,2002b]。当該教団に理解を示す研究者であっても批判的な利害関係者であっても、「カルト」問題をどう個人として判断するか、フレーミングをどう評価するのかという立場の表明なしに研究対象に向かうことが許されない社会状況があるといえよう。→続きを読む(頒布案内)