1909年 2月10日のドイツ官報いわゆる "Reichsanzeiger" は、20 世紀初頭のドイツにおける社会状態の変化を1つの統計数字によって明らかにしている。「1907 年6 月の職業調査の結果ではドイツの就業人口割合は農業が約33%となり、工業が37%、商工業が11.5%、その他が18.5%となっている。女性の就業人口も全就業人口のうち20%(1882)から26.4%に増えている」[Baumgarten, 1964: 702]。ドイツの農業就業人口の比率は工業就業人口の比率を下回り、〈非農業〉就業人口は商工業その他を含めると全体の67%を占めている。ドイツ社会の基礎構造は明らかに農業から工業へと中心を移し、もはやドイツは伝統的な「農業国家」ではなく、新しい「工業国家」に変貌している。〈非農業的・非農民的・都市的〉生活様式が農業・農民・農村の伝統的生活様式にとって代わる時代が到来したのである。
ドイツにおけるこの社会変動とヴェーバーの〈理解社会学〉の誕生とは表面上全く別個の社会的事実であるが、それにもかかわらずこの2つの事実の間には深い一致、意味上の選択的親和性がみられる。この〈一致〉を内側からささえるものは、ヴェーバー(1864-1921)──以下マックス・ヴェーバーを特別の事情がない限りヴェーバーと表記する──自身の〈世代〉体験である。農民の階層分解、農業労働者問題、農村部から都市部への大量の労働力の移動、巨大企業の合同・連合・コンツェルン、金融取引所、国家の官僚制、失業、社会政策学会、福音社会会議、労働組合運動、国際的社会主義運動、ロシア革命の波及。これが、青年期から壮年期にかけてヴェーバーが身近に経験したドイツの〈社会的現実〉である。ヴェーバーの〈世代〉はこれらの出来事を〈伝聞の世界〉としてではなく〈目の当たりの世界〉として体験している。ヴェーバーはこの実世界の出来事を〈自分自身の問題〉として受けとめたのであり、〈ヴェーバー社会学〉の誕生とは、ヴェーバー本人の目をもってすれば、多分この問題解明のための概念的道具づくりの一工程にすぎなかった。本稿の冒頭に掲げたドイツ官報の統計数字は、ヴェーバー社会学の誕生にとって〈レリヴァント〉である20世紀初頭のドイツにおける社会変動のもっとも基本的な特徴をはっきりと示している。
この社会変動とヴェーバー社会学の誕生との間に〈意味に適う結びつき〉があり、また〈因と果に適う結びつき〉があるというこの〈一致〉の仮説を調べることはたしかに興味深い主題であるにちがいない。しかし一体この仮説の前提になっている〈ヴェーバー社会学〉の誕生とはなにを意味するのであろうか。実のところ、ドイツにおける〈社会の状態〉を解明するための社会学的分析装置、即ち〈行為論〉的理解社会学の構築作業は、その〈途上で〉巨人の手から離れてしまったからである。つまりヴェーバーの社会学の企図そのものが〈未完成〉であったということである。この点をつぎに確認したうえで、遺稿論文「社会学の基礎概念」(1921)をもって途絶するヴェーバー社会学の〈誕生〉の意義を上に述べた〈一致〉仮説と関連づけながら調べてみたいと思う。
最初にヴェーバーの理解社会学の成立事情に関わって重要と思われる事柄をいくつか指摘してみよう。1つ目はヴェーバーの『経済と社会』(以下〈WUG〉と略記する)の〈第1版〉によせたマリアンネ・ヴェーバーの「序言」削除の問題 (1)、2つ目はヴェーバーの『学問論集』(以下〈WL〉と略記する)のなかにみられる〈ある断層〉の問題 (2)、そして3つ目は第1回ドイツ社会学会大会(1910)における「ヴェーバーの社会学に関する発言」の問題 (3)である。
以上の3つの問題はこれまでよく知られている問題もあれば、おそらく指摘されることの少なかった問題もある。重要なことは列挙した3つの問題を1つのつながり[ (1):(2):(3) = (A) ]のなかで理解し、これをさらにドイツにおける社会変動のコンテキスト (B) において吟味すること[ (A) / (B) ]である。このことから〈ヴェーバー社会学〉の構想の意図がみえてくる。
〈WUG〉の第1版(1921)は周知のようにヴェーバーの没後マリアンネ・ヴェーバーによって編纂・刊行された。しかしどうしたことか、ヴィンケルマン編集の第4版(1956)には第1版に記されているマリアンネ夫人の「序言」の最初のパラグラフの叙述が見あたらない。この削除された「序言」のなかに〈ヴェーバー社会学〉について1つの手がかりを与える記述が見出される。〈削除〉された個所を以下に訳出してみる。
本巻と続巻の両方の継続刊行となる『経済と社会』は著者の遺稿のなかに発見された。これらの論文は、第1巻の内容、すなわち体系的な社会学的概念学説の内容以前に[原文はゲシュペルト]、あとからくわえた2、3 の補遺にいたるまで、ほぼ1911年から1913年までに書きとめられたものである。おそらくはさらに継続したと思われる体系的な部分は当の研究者にとってデータの経験的処理の前提として、諸データをできるかぎり明解な社会学の概念体系のなかに組み入れようとしたものである。他方本書の読者にとってこれらの概念の理解と摂取には社会学的諸現象についての叙述による表現が多ければ多いほど容易である。第1の〈抽象的〉社会学にたいして〈具体的〉社会学として特徴づけられるこの第2巻の膨大な歴史のデータは、体系的に、すなわち単なる叙述的な表現とは異なり、〈理念型〉的な諸概念によって、おおかた秩序立てられている。……第1の抽象的部分ではそこに引用される歴史的な諸事象は概念を具象的に描き出すための手段として用いられ、他方[第2の具体的部分では]あべこべに理念型的諸概念は世界史的な事象の系列、諸々の施設や諸々の発展をくまなく理解するために用いられている。[Weber, 1921: VII]
いきなり長い引用となったが、最晩年のヴェーバーの〈社会学〉論の執筆状況、動機やねらいを知る上で、マリアンネ夫人の「序言」は大変重要な情報を提供している。マリアンネ夫人の記述によれば〈WUG〉の第1巻「社会学の基礎概念」は第2巻の〈具体的社会学〉の部分よりも〈あと〉に執筆されたということである。1911 年から1913 年の間に第2巻が執筆され、そのあとに第1巻の「行為・社会的行為・社会関係」などの理解社会学の基礎概念論が計画された。しかもこの計画はさらに継続、展開される予定であった、いいかえればヴェーバーの社会学の概念論、理論的分析装置の構築は〈未完成〉に終わったことになる。ここから1つの疑問が生まれる。なぜ最晩年になってヴェーバーはこのような〈社会学的基礎概念〉の彫琢の仕事に没頭するにいたったのか。
この疑問はもう1つの疑問に結びつく。(1) の疑問を解くためにヴェーバーが執筆した〈学問論・科学論〉に関する代表的な6つの論文──現在すべてこれらの論文は〈WL〉に収録されている──に注目してみる。即ち [1] 論文「ロッシャーとクニースと歴史的国民経済学の論理的問題」(1903 - 6) [2] 論文「社会科学的ならびに社会政策的認識の《客観性》」(1904) [3] 「文化科学的論理の領域での批判的研究」(1906) [4] 論文「理解社会学の若干のカテゴリーについて」(1913) [5] 論文「社会学的ならびに経済学的学問の《価値自由》の意味」(1917) [6] 論文「社会学の基礎概念」(1921)である。
容易に気づくように、年代を異にする6編の論文のなかにヴェーバーにおける注目すべき〈表記上〉の違いが──マリアンネ夫人が記述している1911年から1913年を間にはさんで──みてとれる。[4] [5] [6] の論文[以下 (2)-b 群と略記]には〈社会学〉の学名が明記されているのに [1] [2] [3] 論文[以下 (2)-a 群と略記]にはそれがない。〈社会学〉の学名使用について〈WL〉には一つの〈断層〉[ (2)-a / (2)-b ]がみられるということである。これはいったいどうしたことか。[ (2)-a : [3] ](1906)と[ (2)-b : [4] ](1913)の間に何が起こったのだろう。→続きを読む(頒布案内)