1つの章で生じた疑問が、次の章では必ず解消される。緻密な思考の積み上げによる論理展開、これが『過去と記憶の社会学』(以下、『過去と記憶』と略記)の最大の特徴である。内容は自己と物語、物語と記憶、そして記憶と相互行為といった「過去と記憶」をめぐる論点から現代社会論までと多岐にわたるが、論じられる順序とそのつながりが的確であるため、そこにいささかも理路の整合性が損なわれることはない。こうした展開が可能なのも本書が「基本的には書き下ろし」[213]であることによるのだろう。論証するとはどのようなことかという格好の見本を示された思いがした。
さて、本論では『過去と記憶』が示す社会学理論の側面と、その現代社会論への応用という2つの側面から、内容にせまっていきたい。この2点に焦点化するのは、評者の恣意的な選択ではない。というのも、本書は単なる理論書ではない。そこでは、あくまで経験的分析との接合が意識された理論の彫琢がなされており、その内容を正確に理解しようとするならば、この両面からの解読が不可避なのである。それではさっそく、理論的な側面からみていくことにしよう。
片桐の理論的営為は『プライバシーの社会学』(1996, 以下では『プライバシー』と略記)、『自己と「語り」の社会学』(2000,以下では『自己と「語り」』と略記)、そして本書の「自己論三部作」[214]を通じて、一貫して"symbolic interactionism"の視点から展開されている。ここで注目しておきたいのは、三部作では"symbolic interactionism" が訳語としては定着している観のある「シンボリック相互作用論」ではなく、「シンボリック相互行為論」と翻訳されていることである。なぜ、「相互作用論」ではなく「相互行為論」なのだろうか。片桐自身の説明に耳を傾けてみよう。「以前の著作においては、従来の一般的な訳語として『シンボリック相互作用論』を多く用いてきたが、人間と人間との間の相互の行為のあり方に焦点を当てるという意味で、『相互行為』という表現を一貫して用いることにした」[1996: 16]。自己論三部作は自己の社会学的考察であると同時に、「人間と人間の間の行為のあり方」を追求するという目的を共有しているのである。
三部作を追うごとに、「相互行為」という視座の追及はより徹底化していくことになる。その過程を、「権力」という用語の使用法の変遷からみることにしよう。『プライバシー』において、権力は事項索引にも記載されており、本文中では6ヶ所で言及されている。次いで、『自己と「語り」』では権力が事項索引からはずされ、本文中での言及も「非対称性(あるいは権力)」[2000: 56]と括弧内においてその表記が残存しているだけになる。これはちょうど『プライバシー』における「権力的(非対称的)」[1996: 24]という記述の仕方と対称をなしている。三作目となる『過去と記憶』では、本文中にもまったく登場しなくなり、相互行為における力関係の不均衡をあらわす用語が「非対称性」に統一されている。このような変化は、相互行為の外部に位置する構造をイメージさせる概念である権力よりも、相互行為における力関係をあくまでそこに内在するものとして記述しようとした結果として理解できるのである。
相互行為を重視する立場は、本書における自己の定義にも反映されている。本書において自己とは、第1に、「自己を定義するさまざまなシンボルによって構築されるもの」[1]であると定義される。そして、第2に、自己は「自己に閉ざされた営みではなく、他者との関係において営まれること、つまりは相互行為の所産であること」[同]が指摘される。これは自己がシンボルによって構築されるだけではなく、それがあくまで相互行為においてなされるという側面を強調した定義になっているといえるだろう。→続きを読む(頒布案内)