本書は、3部構成で、全13章ある。シュッツを中心にしながらさまざまな論脈からの議論が展開されている。序章でまず、著者は、自己の立場を「発生論的相互作用論」として明確に提示する。そして、自らの知的源泉をシュッツの現象学的社会学にもとめながらも、「本書が主として立脚するのは、そのうちでも、発生論ないしは発生社会学という視座である」[12 頁]とことわって、シュッツ研究に特化するのではなく、自らの立場からシュッツそのものを読み込んでいくことを明らかにする。
第1部では、この本全体の原理論的な議論が提示され、後の議論の伏線になっている。第2部では、著者独自の立場からシュッツの議論の読み込みあるいは読み替えが行われ、エスノメソドロジーの紹介そしてミードの議論の援用によって自己の議論の補強が行われる。第3部では、そうした立場から社会学の主戦場である制度や権力の問題にメスが入れられる。ここでは、紙幅の関係で詳細な紹介、批評はできないので、冒頭部で提示されている原理論的な議論の吟味をまず行い、それから社会学の二大巨匠であるデュルケムとウェーバーにたいして、著者が自らの立場からどのような読み込み、読み替え、切り込みを行っているのか見てみたい。
著者はまず、メルロ=ポンティやレヴィナス、シェーラーやジンメルを引き合いにだして、自己の問題とは実は他者の問題であり、ひいては間主観性の問題であることを明らかにする。そして、「自分の心は自分が一番よく知っているという明証性と、自分が他者の心を知るという可能性とは、認識における『権利問題』としては同格である」[46頁]と言い切って、近代の認識図式の超克を自己の理論の出発点にすえる。なぜなら、それができなければ、独我論の迷路にまよいこむし、迷い込んだままでは間主観性が定立できず、したがって間主観性の存立が大前提である社会理論が組めないからである。独我論の回避がなにより目指されており、そこから後期シュッツによるフッサール批判なども展開され、近代の超克者シュッツ像もおぼろげながら描かれる。「『はじめに行為ありき』という点が事態を適切に描く視座ではないだろうか。そしてとくに、自己と他者と間の問題においては、『はじめに相互行為ありき』こそ出発点とならなければならないのではないか」[48頁]。
それでは、著者の発生論的相互行為論の具体的な中身を見ていこう。「おそらく自他関係を含む関係それ自体の発生、ここではいわゆる社会関係それ自体の発生は、端的に言えば、リズム・共振、エロス・共感、身体的暴力などといった間身体的な諸力(筆者自身は間生体的諸力という語を用いているが)の働きが半ば本具的にビルト・インされた人々の力能が、『出会い』によって解発される機制にまつものであろう」、また「二者関係の出会いにおいては、一方からの『呼びかけ』が他方の『応答』を何らかの形で惹起するケースが、関係の成立においては中心的な事態となる」[49頁]。さらに、「われわれの(社会)関係は、まずもって何らかの形での、一方からの役割期待(呼びかけ)とそれに対する呼応(応答)とからなり、しかもそのさいの一定の『場』のなかには、舞台上の第三者のみならず、観客や台本作家などといった第三の人びともまた存在すること(三者関係!)、このことをまずここで示したいのである」[50頁]。
さらに、結論的にまとめると、「われわれが巻き込まれる『渦巻き』は、大きな流れのなかでいわば引力と斥力が交錯する場である。一方の生体の振る舞い(波長)と他方の生体の振る舞い(波長)とが『出会い』、共振、共鳴しあって『引き込み』現象を起こしつつ、相互同調(シュッツ)する場合がある。その相互同調の波長のリズムを、身体記憶を含む記憶の助けを借りながら内自化すれば、この二者関係はそれなりの固有の波長・リズムを共有するといいうる。しかもここに第三者(第三項)が絡み合う。『生体は一大振動系である』という論点は、この基本事態を的確に示唆する。だが、それはもちろん閉じられた時空間ではない。それは開かれた歴史的な社会空間内で生じる事態である」[50頁]。→続きを読む(頒布案内)