1.本報告における問い——形式社会学の再考にむけて——
ジンメルの形式社会学は、「社会化の形式」を研究するものである。
「社会化(Vergesellschaftung)」とは?
——人と人とのあいだの微細かつ流動的な過程としての社会。人びとの相互作用こそが、社会を社会たらしめている。
ジンメルによれば、従来の社会科学の対象は、「相互作用する諸力がすでにその直接の担い手を離れて、観念的な統一体へと結晶化してしまっているような、社会的現象」であった。
それに対し形式社会学では、「人間のあいだの繊細な糸、微細な関係」を解明する。
→ ジンメルの(形式)社会学は、社会を・諸個人の相互作用に還元・する・微視的・社会学なのか?
一方で、ジンメルの社会学を貫くテーマ(社会学の根本問題)は、「個人と社会」だった。
とりわけ、個人と社会との葛藤が問題(みずから統一体として完全になろうとする個人
vs. それに対して部分的機能を要求する社会)
→ このように個人に対立する「社会」は、いかにして顕れるのか?
それは「諸個人の相互作用」とどのような関係にあるのか?
本報告は、個人に対立する「社会」の存立の論理を、ジンメルの形式社会学のテクスト(『社会学』)から、「超個人的な統一体」をキーワードにして探索する試み。
2.出発点——多数決論における「超個人的な統一体」の位置——
多数決の結果が、「統一的な集団の意志がこの方向へ決定されたということのしるしを意味する」場合、それは「新しい転換」である。
そこでは、「超個人的な統一体」が前提とされている。
・この多数決論は、ジンメルの支配論のなかで、人格的な支配形式(一人支配・複数支配)と非人格的・客観的な支配形式(客観的な力への従属)のあいだに挿入されたもの。
前二者は、支配者-従属者の相互作用として記述できるのに対し、後者では、「相互作用が排除されている」と謂われている。
→ これら両者のあいだの転換をあらわすものとしての、「超個人的な統一体」の発生。
・しかし多数決論では、「新しい転換」と言われているだけで、その発生メカニズムについては何の説明もない。
→ では、「超個人的な統一体」はいかにして発生するのか?
3.三者関係から集団の自己保存へ
三者関係の、二者関係には見られない性質‥‥「超個人的な統一体」。
その根拠: 一人の個人が離脱しても集団は存続する。
→「超個人的な統一体」発生のミニマムな状況としての、三者関係。
そこでジンメルは、「集団の自己保存」の章の参照を指示する。
→「集団がその成員の離脱と交替にもかかわらず同一のものとして自己を保存するという事実」の考察。
・成員の漸次的交替。
・支配者個人に結びつく統一から、支配権力の世襲化・組織化へ。
・統一の象徴化。
4.まとめ
ジンメルの形式社会学は、社会をたんに諸個人の相互作用に・還元・する・ミクロ社会学・ではなく、また、相互作用の集積が即、マクロな構成体になるという仕方で、単純にミクロとマクロを接合させようとしたものでもない。
そのことは、ジンメルが「超個人的な統一体」の登場を「新しい転換」と表現したことによっても示唆されている。われわれが「社会」と呼ぶものは、諸個人の相互作用のみから直ちに引き出されるものではなく、その間になんらかの「転換」を差し挟まなければ説明できないものなのかもしれない。
ジンメルの形式社会学は、そのよく知られているイメージとは異なり、諸個人の相互作用と、客体としての社会(とそれに対立する個人)とのあいだを架橋しようとする志向を(本人が意図していたかどうかは別として)もっている。今回の報告では、残念ながらまだその全容を示すことこそできないが、そうした可能性の一端を示しえているのではないかと思われる。